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これを”生きている”と言えるのか

 最近なんとなく、自分って思ったより人を信用していないのかもなぁと思い始めました。
 自分が誰かに何かを願うときは、どうせ聞き入れてはもらえないと最初から諦めていて、期待なんてものは存在しないというか。

 諦観といえばかっこよく聞こえますが、それって要するに、誰も信じてなんかいないということですよね。

 そんなんでいいのだろうか。

大人たちに裏切られすぎた

 私は、自分の思ったことが正しいとか、自分の気持ちは思って当然だとか、そういう人間として在るべき土台、根本的な自信のようなものがぽっかりかけています。
 一般的には、自分の意思はあるし、自分の気持ちを疑うことはないけれど、それを実行して上手くいくかがわからない、みたいなことを、『自信がない』と表現しますよね。だから、そういう意味でのそれとは、少し違うような気がします。

 どうしてかなと考えるととてもシンプルで、受け入れられて当然の言葉や感情を、裏切られすぎたのかなぁと思います。

 家でも学校でも、そして大人になって社会に出てからも、私の「たすけて」を聞き入れてくれた人は、本当に少なかった。
 環境が変わるたび、私を知る人は少なくなりますからね。病気のあるなしに関わらず、その人の過去を知っていれば言葉の重みは変わるものです。でも特に、心の病を抱えた人の発する「たすけて」には、とてつもない重みがあるというか、絶対に看過してはいけないものだと思います。

 それでも、何も知らなければただの「たすけて」で、何を抱えているとか何と戦っているとか、わかるはずがないんです。
 だから…という言葉で片付けてしまうのもひどい話ですが、仕方のないことなのです。どうしようもなく。

 中学なんて、みんなサボりたがる時期ですから、先生が生徒にキツくなるのも仕方ないでしょう。
 しかしそれでも、「たすけて」を軽視するのは話が別だと思います。「辛い」「しんどい」「逃げたい」「会いたくない」「やりたくない」「行きたくない」、どれも本来軽視してはならない言葉です。どうして軽んずることができるのでしょうか。

 私の不幸は学校だけにとどまらず、両親が子どもを理解し向き合うことができる人間ではなかったこともあります。
 学校へ行きたくないといえば、母は気が狂ったように叫び散らしてきたので、気を休めるどころか、身体さえも休めることなんてできません。

 学校で否定されて、家でも否定されて、私には安堵できる場所が存在しませんでした。

どこでどんな顔をすればいいの

 私が今でも思い続けていることです。

 家では笑っていられなかったから、学校で馬鹿みたいにヘラヘラしてました。そうしないと気がもたないから。
 不登校になった高校2年、テストで0点をとって、それを笑ってくれた友達がいたから、他の人にもヘラヘラしてそのお話をしたら、とある先生に「真剣にやっている子の迷惑」と言われました。

 家では母に否定される、学校にはしんどくて居場所がない、その上、最後の砦として私を守っていた『笑顔』までもを否定されてしまっては、心の底から、どこでどんな顔をしていればいいのかがわからなくなりました。
 今でもその先生の言葉の傷は癒えておらず、社会活動をする中で、笑顔でいるのがほんの少し怖く感じます。

 また誰かにこの笑顔を否定されるのは嫌だ、と。

自分の価値が、ぐんと下がる

 人は保身に逃げる生き物です。
 自分が可愛くて、自分だけは傷つきたくなくて、自分の優先度が一番高い。

 まあ、生物的に考えても、自分を護ること最優先であるのは当然のことですよね。子孫を残すためにも、まずは自分が生きていなければなりませんし。

 でも、度重なる否定で、そもそも自分なんかを護ろうとしていたら生きていけるわけがない、というのが、私のたどり着いた結論でした。

 自分の辛いとかしんどいとか、そういう感情を無視して、行きたくないとか逃げたいとか、そういう願望も諦めて、自分なんかどうにでもなれと思ってないと、『怒られない生活』というものさえも送ることができません。
 怒られることが怖かったというよりかは、怒られて傷つきたくなかったんですよね。結局私も、自分を護るための選択がそれだったのですが、なにも護られていません。

 それでも逃げられないから、私にとっての私の価値は、下がり続けます。
 下がって下がって、仕事をするためになら”なんでも”するというところまで辿り着きます。行くところまで行った感じですね。
 あの頃は、本当になんでもしたなぁ。自分は脅して傷つけないともう動けないから、中途半端なODとリストカットが当たり前で、ODして電車通勤しようとした日には、吐き気で途中リタイアして帰ってきて、結局出勤できなかった日もありました。まあそれはそれで、体調が悪ければ仕事を休んでもいいという当たり前の何かに当てはまることができたので、ある意味では自分の願いを叶えることができていたようにも思いますね。

 でも、そこまでしなきゃ自分を護れないって、そこまでのことが自分にできてしまうって。
 どうしてそうなるまで徹底的に傷つけることができたんだろう。自分にも、周りの人にも、思います。非道過ぎる。

「それでもいいよ」と言われたかった

 学校へ行けなければ怒られて、学校へ行っても授業に出なければ帰れと言われたり、サボるな戻れと言われたり。
 通信に転校すれば「学校辞めた」判定で、学校行かなければ働けと言われるし。
 就職したら、給料をもらうわけですから、期待を背負って成果を出さなければならなくなるし。色々あって仕事を辞めれば、お金どうするの!生活どうするの!って怒られるし。

 私ばかりが不幸で、誰もがこういう経験をしてきたと思いますが、完璧なまでに持ち得る居場所を否定されてきた理由だけはわからない。
 学校が無理なら家に居場所があるとか、その逆だったり。そのほかに、病院とか親戚とか、どこか気兼ねなく頼れる場所があったり、逃げる場所があったり、そのくらいの救いはあってくれてもよかったんじゃないかなって。

 私が笑えて、笑っている私を否定も肯定もせず、黙って見てくれてればいい。
 私のしていることが間違っていて、怒られるべきならそれでもいいから、誰かにたすけて欲しかった。こんな言い方はとても他力本願で、自分勝手かもしれませんけれど。

 私のしようとした選択って、最初は可愛いものじゃないですか。
 学校休みたいとか、授業休みたいとか。サボりでもなんでも、それくらい許してくれてもいいじゃないですか。
 「それでもいいよ」って言葉が、不干渉という優しさが、どうして出てこないんですか。

 可愛いわがままを許してもらえなかったから、取り返しのつかないわがままに繋がった。学校を辞めるになったし、仕事を辞めるになったし、ODをするになった。

 私が私の命を軽んずることに繋がった。
 これを正しさと、言ってはいけないと思います。絶対に。
 例え相手にどんな正義があろうとも、人が人の命を軽んずるのは良くないことです。そうさせた人の罪は重い。

 何かあれば、すぐに自分を傷つけようとしてしまう人生。こんなの、死と背中合わせなのと変わりませんよ。
 生きている心地がしません。

 こんな人生でも”生きている”と言えるのなら、ぬいぐるみや人形の方がよっぽど幸せに生きている。
 彼らには、居場所があって、笑顔があるのだから。

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