見出し画像

だから、何があっても生きていて

 私は、自分の自己肯定感そのものを『否定』してきました。
 理由はだいぶ前の記事でお話ししたのですが、ざっくりと、時に暴走しかねない不安定な自己肯定感を持つよりも、自分を冷静に客観視することができた方がいいよね、みたいな感じ。少し語彙は違うかもしれませんが、本質的にはまあそんな感じだったと思います。

 最近になって、少しだけ自己肯定感への意識が動きつつあるので、そのお話をしようかなと。

褒められるって、嬉しいんだ

 私は、自分に自信が無いことが当たり前でした。
 自分のやることなすこと全てに価値が無いどころか、誰かを馬鹿にしていて、誰かの迷惑になっていると思っていました。今でも思っています。

 それは、生きる上でとても辛いことです。
 側から見れば自業自得なのですが、辛いものは辛いです。当然ですけど。

 加えて、ここしばらくの私の『世界』は、とても狭いものでした。
 ほとんどが家の中で完結していて、当然のことながら、人間関係なんてものはほとんど介入してきません。訪問の看護師やヘルパーさんが主ですね。
 厳密には、SNSでたくさんの人と繋がることも可能ですが、Twitterで呟くことはあれど、誰か個人と会話をして関係性が変わってみたいなことは、そうそうあり得ない。あまり深い人間関係を持たないので。

 最近訪れた変化は、通所を始めたということです。福祉サービスの施設に通い始めました。
 外出をして、人と会って、話して、具体的な活動内容は施設ごとに異なるのですが、将来、自立した生活を営むために必要なことを練習したり、学んだりする場所です。サービス内容も人それぞれで、私の場合は過去に色々とあったので、その傷を癒すというか、自分にもっと知って気づいてあげられるよう、考え方のトレーニングするというか。ざっくりと、そんな感じ。

 そこで、『褒められる』ってことが『嬉しい』ことなんだって、ずっとぼんやりしていた私の心が、ふわっと霧が晴れて明快になったような心地がしました。
 一瞬だけ、とても温かくなった気がした。

自分を肯定していいのか

 そもそもとして、私は私のプラスの感情に関して、「自分なんかがそんないい思いをしていいのか?」という疑問を感じています。
 もっとわかりやすく言うなら、『後ろめたさ』や『罪悪感』です。

 私は、私の幸せが一番望めない人間です。
 自分からそう思い始めたわけではなく、”誰か”の言葉で少しずつ小さな傷を受けているうちに、だんだんと「自分の幸せは望まれていないのかも」と感じるようになっていたのだと思います。

 私だって、自分のために生きていた時間はあったし、自分のために行動できていた時もありました。意識的で無いにせよ、自分を大切にできていた時期はちゃんとあったと思います。
 それこそ小学生が、自分の幸せを望めないとか、言うとは思えませんからね。少なくともそれくらい子どもの頃は、もう少し自分に優しく生きていたと思いますよ。

 様々な経験を重ねるにつれ、『罪悪感』が性根に染み込んで、それを自覚する頃には『自尊心』なんて必要ないと、どこかに投げ捨ててきてしまったような気がします。
 自分を尊ぶどころか、自分を大切にしようとか、傷つきたく無いとか、自分を守るための安全装置として機能するはずのささやかな『自己肯定感』さえも壊れて、疑いに代わって、申し訳なく感じるようになっていって。

 今更ながら、そんな自分が虚しいなと感じるのです。

『後悔』をしてもいい

 私は、今まで『後悔』を全然できない人でした。
 というか、自分のやってきたこと全てが、その時の自分なりの出来得る全てを尽くした結果だと思っているので、後悔をする余地なんてありませんでした。言い方を変えれば、必死すぎたみたいな感じです。

 まああとは、意識的に後悔をしないようにしていたのもあるかもしれませんね。
 ただでさえ、自立して生きていられていなくて申し訳ないのに、一人前に後悔なんてしていたら、一生懸命やっている人を馬鹿にしているような気がしてしまって。私がそう思うこと自体が間違いなのだと、思い聞かせていたのかもしれません。

 私は、一人暮らしを始めてから5羽の文鳥を飼って、そのうち4羽が色々な理由で亡くなっているのですが、事故で亡くなった1羽のみペットロスのような感じになったけれど、3羽はあまり深く沈むことはありませんでした。
 尽くせる限りの手を尽くしたと思っていたから、やはり後悔するとかそういうことができなくて、それは運命だから仕方がなかったと、流し切ることができてしまっていたように思います。

 見方を変えれば単なる強がりでした。今思えばね。
 毎日「おはよう」と「おやすみ」を行って、出かけるときは「行ってきます、お留守番頼むね!」、帰ってきたら「ただいま、ごめんね遅くなって!」と、いつも声をかけています。毎日ではありませんが、放鳥をして遊んでいます。一方で、掃除と健康チェックは毎日欠かせません。自分よりも気を遣っているかも。
 それだけ手も時間もかけているのだから、亡くなった時は悲しみで傷ついても、気持ちが落ちても、すごく自然なことです。むしろ、それをできなかった私は、冷たいのかなと感じてしまいました。

 でも多分、私はそういう辛い感情を、どこかでばっさり切り捨ててしまっていたのだと思います。必要な悲しみも、気付いたら切り捨てて、自分から遠ざけたり、初めからなかったみたいに綺麗さっぱり忘れてしまったりしていました。
 今更になって、寂しいと感じました。もっと手をかけてあげたかったとか、もっと遊びたかったとか、『後悔』のような感情がほんの少しだけ、そこにあることに気付けました。やっと。

 施設の方とお話をしていて気付かされたことです。回数なんて片手で足りるくらいなんですよ?
 ここまでたどり着くのに、すごく遠回りをしたけれど、本当はすぐそばにあったような感じ何してしまって。本当に、遣る瀬無いです。

 ごめんね。

それでいい

 私が生きる上で、負の感情を切り捨てるのは、必要なことだったのだと思います。そうしなければ生きていけないくらい、ここまでの道は当時の私には険しすぎたと思います。
 先日投稿した、パニックに関してもそうですよね。実は、パニックは自衛だと教えてくれたのも施設の支援員さんなのですが、そうならなければ自分を守れない状況に追い込まれていたというわけです。

 今の私は病気ですが、私から病気を抜いたら、それはもう私ではないと思います。今の私が私で在るためには、病気の自分は必要不可欠なピースで、その現実を否定することはできないし、すべきでもないと思います。
 これは自身に関する全て、何に対しても同じことが言えます。

 そして、今の私を形作った過去もまた、今の私で在るためには必要な時間と経験だったので、その時間や経験を否定するということは、今の私の存在そのものを否定することになってしまいます。

 そういう意味で前向きに、私は今の私自身に対して、「それでいいよ」と思うことができます。
 これは私にとって、『肯定』でも『否定』でもありません。ただただ存在を認識するだけです。
 空気の約80%は窒素だなぁ、みたいな感じ。別にそれを知ったからって、「窒素すごい」とも「多すぎて邪魔」ともなりませんよね。ただただ「ああそうなんだ」くらいの認識、それと同じです。

 そして私は、ほんの少しだけ前に進むために、「それでいいよ」のうしろに、「だから、何があっても生きていて」と付け加えたいと思います。
 否定も肯定もされないから、まあいるくらいいいでしょう。窒素が許されるなら、自分だって許されて良くないですか。

 まあ実際、窒素がなければ色々と大変なことになるんですよね。まず大気圧がぶっ壊れるだろうし、それがどうにかなったとしても、酸素は濃すぎると中毒を起こしますからね。窒素がその辺をいい感じに調整してくれているみたいです。意外と優秀。(生半可な知識なので、半信半疑くらいに聞き流してください。)
 もしかしたら私も、意外なところで勝手に役に立っているかもしれません。或いは、今役に立てなくても、そのうちああ私がいてよかったなぁと感じる時がやってくるかも。

 別に、未来に希望を抱けとかたいそうな事は言いませんけれど、何も期待しないよりは、ちょっと面白そうな未来を想像している方が、”今”がちょっとだけ楽しくなる気がしませんか。
 私はとっても快楽主義なので、そういうバカみたいな想像をするのが大好きです。想うだけならただですし、『そうぞう』する力は、人に与えられた特権ですからね。

 ほんの少し、生きていてもいいかなって思える。
 そんなつまらない毎日でいいんですよ。生きていたくないよりは、ずっといい。

 それでいい、だから何があっても生きていてください。
 私からの、ささやかなお願いです。巡り巡って私の生きる力になるから。

よろしければ、サポートよろしくお願いします。 社会復帰に使う、なんて言いながら、きっと、私の人生を彩って、これからもnoteで言葉を紡ぎ続けるために使います。