「死」とは何か 「生」とは何か (5)飛躍と主役

今回の記事は、前回に引き続き、
「宇宙は色々なことを起こしたがっている」
「宇宙は試したがっている」
という「宇宙の陰謀」と、私たちの「死ぬ生」、私たちが「生きて死ぬ」ということとの関係を考え、そのことを通して、
●私たちがなぜこの「生」を生きなければならないのか、
●それはどのような「生」なのか、
●どのような生き方ができるのか、
●この「生」はこの先、どうなって行くのか、
などについて説明したいと思います。

前回の記事では、宇宙の階層的進化についての考えを述べました。
やや長い文章となりましたが、要点は次のようなことでした。

宇宙誕生以来の長い時間の中で、初期のころに素粒子が生まれ、その素粒子が組み合わされて原子が生まれ、今度は原子が組み合わされて分子が生まれるという具合に、新たに生まれたものが単位となり、その組み合わせによって次の単位が生まれ、さらにそれが組み合わされていくことで宇宙の階層構造が作られてきた。
地球上では、その分子がさらに「化学進化」を進めてやがて生命=細胞が誕生した。
地上での生命の誕生は、物質を組み合わせることで生命を生むことができるという可能性を、宇宙が試したのだと言えるだろう。
それから長い年月を経て、細胞を単位とする多細胞生物、すなわち私たちと同じ「死ぬ生」が生まれて、現在に至る。

この宇宙の階層的進化について、二つの補足をしたいと思います。
一つ目は「飛躍」、そして二つ目は「主役」です。

[飛躍]


新たな階層ができるとき、それはそれまでの宇宙には全くなかったものであり、それまであったものの単なる寄せ集めではないということがポイントです。
水素原子と酸素原子が組み合わされて水の分子になると、水素や酸素からはかけ離れた性質を持ちます。
高分子有機物の組み合わせによって細胞ができていますが、細胞(生命)になると、単なる有機物にはない代謝や自己複製など、独特の振る舞いをするようになります。
細胞の組み合わせによって多細胞生物ができ、それがやがて言語を持ち社会を作り、現代の文明文化にまで至ります。
こうした「組み合わせ前後」の変化を科学がどのように説明するのか私は知りませんが、少なくとも私たちの感覚から見るとそこにはある種の「飛躍」が起こっているように見えます。
こうした飛躍が起こり、階層が上がると、下の階層に比べて格段に複雑なものとなり、その営みは格段に多様なものとなります。すなわち、より色々なことが起こるようになります。これこそが宇宙の陰謀が目指しているものです。

[主役]


新たな階層に上がると、宇宙はその階層で試せる可能性を次々に実現するでしょう。
下の階層では思いもよらなかった複雑で多様な振る舞いや機能を持ったプレーヤーたちによる色々なことが起こるようになります。それこそが宇宙の陰謀が求めていたものです。
しかし、宇宙の陰謀はそれに甘んじることはありません。さらに高みを目指すのが宇宙の進化です。
原子が分子になれば、様々な分子が生まれ、様々な振る舞いを見せるでしょう。けれども、分子が分子の振る舞いをすることだけで宇宙が満足することはありません。分子の中から次なる階層を試すプレーヤーが現れます。
このようにそれぞれの時点で、次なる階層を目指して可能性を試すプレーヤーが、その時点の進化の「主役」です。

[宇宙の陰謀圧]


「飛躍」と「主役」という考えを用いて階層的進化がどのように行われるかをまとめると次のように言えるでしょう。

色々なことを試したいという陰謀を持つ宇宙は、その時点での進化の「主役」を単位として、それまでには全くなかった組み合わせによる新たな階層を作る「飛躍」を起こすように仕向ける。

このように、宇宙が「主役」に「飛躍」を仕向ける様々な作用のことを総称して宇宙の「陰謀圧」と呼びたいと思います。

[現在の主役~始まって終わるもの]


さて、現在の宇宙における進化の主役は「死ぬ生」であり、その中でもその最先端にいる人間こそが主役であると考えます。
それはすなわち、進化のための飛躍を強いる陰謀圧が人間にのしかかっているということです。
このように宇宙に課せられた陰謀圧が人間の「死ぬ生」の苦しみ、人生の理不尽の根源だと考えます。

そして、色々な可能性を試したいという宇宙の陰謀にとって、「始まって終わる」という形式がうってつけだったということです。まさに「始まって終わる」という形式は宇宙の陰謀が私たちに課した陰謀圧だったのです。
すなわち、死なないように生にしがみつかせる、「死ぬ生」が少しでも長く終わらないようにもがく、その結果色々なことをする、そうすることで宇宙は色々なこと、色々な可能性を試すことができるというわけです。
そのため宇宙は、私たち人間に、痛くて苦しい死を与えたのです。痛くて苦しい死から逃れようと、もがき続けていろいろなことをさせるために。
だから人間社会は、生はいいものだ、死は悪いものだと思い込ませる仕組みになっているわけです。

[死ぬ生の組み合わせ]


さて、進化の主役は、ただ単に色々なことを起こすことが求められるだけではありません。さらにその先の飛躍を目指すように仕向けられます。
「死ぬ生」は、それが単位となって、「死ぬ生」自身の振る舞いや機能からは思いもよらないような振る舞いや機能を持つ次の階層を、「死ぬ生」を組み合わせることによって組み上げることが求められます。
そのためには、単位としての「死ぬ生」(人間)が、それまでの同じ階層の者同士の結合方式とはかけ離れた、飛躍的な結合方式を生み出さなければなりません。具体的には、他の動植物たちの群れとは異次元の集団形式が要求されたということです。
原子が分子になるとき、分子が細胞になるとき、それはそれまでの単位がただ集まっていただけとは違う振る舞いを実現するような結合方式を成し遂げたことで階層が飛躍したはずです。
さて、現在の主役としての人間はどうでしょうか。
人間が、これまでの多細胞生物=「死ぬ生」と比べて、
「言語によって「組み合わされ」、社会や文明文化という「思いもよらない振る舞いや機能」を持ち始めているのではないか」
という視点で見ると、人間の階層には飛躍が始まっていると見えなくもない気がします。
その場合、「言語」が人間を飛躍させているように見えます。

最近気づいたことですが、「始まって終わる」という形式は、言語を生み出させるにも大変必要なものであったのだと考えます。
私たちが何かを見つけたり考えたりすることで「知」が生まれますが、もしも人間が死なない(終わらない)形式であったとしたら、その知はどこに保存されたでしょうか。ずっと死ぬことがないのであれば、自分の頭の中にさえあれば失われることがありませんからそれで十分だったかもしれません。
しかし、死んでしまうと思うと、自分で大事だと思った知は何とか残したいという気持ちが生まれても不思議がありません。そうすると知を他者に伝達しようとすることになります。
それはちょうど今のこの私が死ぬまでの時間の少なさを自覚したことで、自分の考えを語りたいと思い、この文章を書いているのと同じです。
ところが知を他者に伝達しても、その他者も死にますから、結局知は人間と人間の間に保存されることになります。
そのようにして知、あるいは言語が、人間と人間の間にあって、人間同士を結び付ける新たな結合方式として生み出されたと考えることができそうに思います。

[次の階層~陰謀圧はどこへ]


もしもそうだとすると、「死ぬ生」の次の階層は、人間たちが組み合わされることによってできる社会や文明文化のようなものだということになり、新たにそれが宇宙の陰謀のプレーヤー=主役となるのかもしれません。
ただし、宇宙史の中での「飛躍」は、最低でも億年単位の出来事ですから、現生の私たちが丁度その時点に遭遇しているのではないか、とするのはあまりにも出来過ぎな話だと思います。
それでも、私たちが経験しているこの数千年、数万年、あるいは数百万年程度の間に起こっていることは、相当に急激な変化ではないかという実感があります。ですから、宇宙史的なレベルでの出来事の一端に与っているのではないかというくらいの思いはあります。

宇宙の陰謀圧はどこに働くのでしょうか。それは「色々なことを試す」プレーヤー(主役)に働くものです。
人間が色々な体験をすること、思いつくこと、試すこと、そうしたことが有効なうちは宇宙の陰謀圧は人間にかかる、すなわち人間が進化の主役であり続けるでしょう。
ですが、より有効な陰謀圧のかけどころが生じれば、宇宙の陰謀圧はそこにかかるように移行するのではないか、一つ上の階層に進化するのではないか、そんな風に考えました。
人間のレベルから、人と人の間、社会へと移行するのではないか、と。
例えばAIのようなものが、人間に代わって、あるいは人間以上に「試行」の有効な「主役」として現れれば、人間は「主役」の座を明け渡すことになるのではないか。
イメージとしては、人間の細胞が人間を構成する単位となっているように、今度は人間が次の階層を構成する単位でしかない立場になる、ということです。
もちろん、これはかなり安っぽい夢物語、あるいはSF程度のものに過ぎないとは思います。

[「ただある」ことを求めて]


上の階層の単位となることで生の苦痛を逃れられる、進化の主役の座を明け渡すことで、もはや飛躍を成し遂げることを強いられなくなり、陰謀圧から解放される。その結果、果てのない欲望、上昇志向、競争心、闘争心などが無意味となる、すなわち穏やかで安定した生を生きることになる。上に書いた夢物語を言い換えるとそういうことです。
それをさらに別の言い方で言うと、「ただある」ことを許される、とも言えるかもれません。

「始まって終わる」形式を持つ我々は、「ただある」ことに永遠のあこがれを持つ存在ではないか、と考えています。
我々は「始まって終わる」という形式を持つゆえに、原理的に「ただある」ことはできない運命にあるのではないか、つまり始まってから終わるまでの間(生まれてから死ぬまでの間)、自らの努力で「あり続け」なければならないのではないでしょうか。
しかし、「ある」ことへの強いあこがれの思いが飛躍を果たせば、上の階層に「ある」ことの努力をゆだねることができるだろう。それが成就したときはじめて、我々は「始まってから終わる」までの間、「ただある」ことが許されるようになる、宇宙の陰謀圧から解放されて「ある」ことにあくせくしなくても済むようになる。
そのように「ある」ことへのあこがれを持たせ、ただ「ある」ことを求めてもがくようにさせることが、宇宙の陰謀圧の内実だとも言えるでしょう。
(「偽線分は直線の夢を見る」参照)
「哲が句」を語る 「はじまり」について④ 直線世界と線分世界|ego-saito (note.com)

[若き日の夢]


私が若いころに夢見たのは、以上のようなことでした。
つまり、人間は現在の主役としていつの日か飛躍を果たし救われる、そのためにより深い結びつきを求めて社会を進化させる存在なのだ、と。
それは同時に、大島泰郎先生が、無生物から生命への進化を講義し、最後に「社会」という一言を残して講義を終えたことの答えなのだ、と。
ただそのころはまだ、「宇宙の陰謀」というマイナス面はあまり考えていませんでした。
夢の日がやってくるまでに人間に課せられている創意や意欲、挑戦心や競争心、同時に生や死の苦痛や悲惨、その理不尽、それらは宇宙に必然な致し方のないものだと思っていました。
でも次第に私の考えは、果たしてそれらは甘んじるしかないものなのか、なぜ甘んじなければならないのか、別の考え方はできないのか、そんな方向へ変わって行きました。
その結果として思い至ったのが「宇宙の陰謀」というマイナス面の視点でした。

[お利口さん哲学ときかん坊哲学]


およそ人間社会は、宇宙の陰謀の思惑に向かって邁進するようにできています。
人類史はそれに迎合する「お利口さん哲学」であふれています。
アリストテレスは言います。人間は「社会的」な動物だと。彼はお利口さんです。
でも私は思います。確かに人間は「社会的」だけれども、皆が皆「社会好き」ではありません。人間が社会的なのは、宇宙の陰謀圧に強いられているからです。
人間社会は、陰謀圧に加担するお利口さんばかりが称揚され評価されるようにできています。生がよきもの、死が悪きものと洗脳されているのも同じことです。
ただ、陰謀に加担するものがあれば、抵抗するものだっています。
「きかん坊哲学」です。
私の知る範囲では、抵抗する哲学の最も初期に属するものはエピクロスの哲学だろうと思います。私はエピクロス哲学を評価しています。
エピクロスの有名な言葉は「隠れて生きよ」です。社会好きではない人々がいるのです。
宇宙の陰謀圧に疲れ、陰謀圧を逃れたいと考えた人々です。

そんな具合で、およそ世にあるものを、お利口さんときかん坊とに分けてみると、世の中の仕組みがよく見えるのではないでしょうか。

[補足:新たに気づいたこと]


この記事を書いているうちに新たに気づいたことが二つありました。
一つは前述した「知」のありかです。
人間が死ぬように作られている理由の一つが、「知」を人と人の間に置いて、「知」で人間同士を結び付けるようにするためだ、ということです。

もう一つは、人間から飛躍してできる次の階層が社会とか文明文化だろうとずっと書いてきましたが、もしかしたらそれは視点がややずれていたのではないか、と感じたことです。
宇宙の階層的進化を考えるときに、物質的な面に目を奪われ過ぎていたのではないか、という気がしてきました。

以前に、「もう一休み 大島泰郎先生と小尾信彌先生の衝撃|ego-saito (note.com)」で少しだけ触れたことですが、「物質―生命―社会」のすべてを統べる原理は何か、という問いに対して、若き日の私は「それは関係だ」という答えを得たということを述べました。
そして、若いころ、宇宙の進化は「関係進化」であると考えていました。
宇宙の階層性を考えると、原子は素粒子同士の「関係体」、分子は原子同士の「関係体」、生命は分子同士の「関係体」ということで、そのようにして見えてくる世界からは物質性が消去され、残るのは「関係体」だけだと見えてきます。それでは素粒子はエネルギーの関係体なのか何なのか、という問題はうまく解けないのですが、我々が物質とか物体とかと感じているものはほぼ「関係」に解消されてしまうと考えていいのではないかと思います。
この「関係」の視点を徹底してみると、人間の次にできる階層は社会とか文化とか文明のように、何となく実体っぽいものや物質っぽいものでなくても、人間と人間の間に形成され維持されている何らかの「関係」であればいいのではないか、と思えてきました。
「そうだ!」と思いました。
それは言葉ではないだろうか、あるいは概念、情報、そのようなもの。
何しろ、言葉であれば無限に「色々なこと」を試してみることができます。
ただ、人間が言葉を操っているうちは、まだ人間の階層の範囲でしょう。人間と人間の間にあるとは言っても、人間の頭に依存しています。
それがやがては人間の操作から離れて、言葉や情報が自律的な階層を持つような飛躍をすることになるのではないでしょうか。

そのように考えると、以前から感じていた難点をクリアする道も開けそうに思えてきました。
その難問とは、地球上での生命の誕生が、宇宙史的な進化の流れに位置づけられるのだとすると、その先で、地球や太陽系の寿命が尽きたときのことはどのように考えたらいいのかという問題です。
でも、その問題の答えを次のように考えることができるかもしれません。
生命や多細胞生物の進化というものが、言葉や情報の自律的な関係体の形成を役目としていたと考えるならば、地球や太陽の寿命が尽きたとしても、そしてその時私たちのような生物が絶滅したとしても、それに代わって何らかの別の担い手が何らかの形で、その自律関係体を地球や太陽とは別の場所や環境で維持することは可能かもしれない、と考えることも無理がないかもしれません。

今回も長い文章になりましたが、以上が私たちの「生」や「死」についての、私なりの考えのほぼすべてです。

[実は宇宙も哀しい]


ところで最後に一言、余計なことを。
実は、「宇宙も哀しいやつなのだ」、そんな風に思います。

宇宙も哀しい
放っておけば
熱力学的な死を迎える
宇宙の陰謀は
その宿命への
ささやかな抵抗だ
      2023.11.29

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?