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AIによって増えちゃう仕事

あんまり仕事の話をしないでおこうかなと思ったが。思うところがあるので書いておこう。

きのう、生成AIのおかげで撮影がなくなった。某WEB関連のビジュアルで、「もう、これでいいじゃん」というレベルの画像がハマっていたけれど、「え、これAIでつくったの」という事態になった。もう、こんなことが当たり前になったんだなあ、とおじさんは思う。先方もびっくりしたと思うな。

さみしい話ではあるが。

広告業界は、すべての仕事がデザイナーに集約されていっている、という今に始まったわけではない歴史的な流れがある。

写植は、すでにデザイナーの仕事だ。今や当たり前に行われている級数、長体、平体、文字詰めなどの書体指定も分業だったが、今はデザイナーの当然の役目。さらに、新聞広告は青焼き校正がなくなり、版下会社がなくなり、N_PDF入稿になった。色数やカラープロファイルの調整などなど、これも、すべてがデザイナーの役割になった。WEBでは、コーディングもデザイナーの仕事になりつつある。WEBそのものが印刷屋の仕事を奪い、その仕事がデザイナーに集約されたひとつの事例と見てもいいだろう。もう君一人でいいじゃん、という状態だ。

で、そこに生成AIでしょ。簡単なものなら、もうカメラマンは不要だったりする。これが加速したら、画像生成も、デザイナーの仕事になっていくんだろうな。なんか、かわいそうだね、デザイナー。こうなるとだ、役割が多すぎて、スペシャリスト中のスペシャリストは生まれにくい。やりたくないことまで責任として背負わされる。ここ5年、その加速がえげつない。

「AIによって、なくなる仕事」と、よく言われるが、機械の能力の中に完全に飲み込まれて消えるわけではなく、どこかの誰かに裁量が集約されているだけだと思う。丁寧に言えば、「AIによって、集約される仕事」なんだろう。仕事を責任と言い換えてもいい。

「なくなった職業」をしていた人は、何をするのか。という話題も、なかなか議題に上がらない。写植屋や版下制作会社は、何になったか。案外、デザイナーにはなっていない。クリエイティブの末端で、最後のフィニッシュを手がけていた人ばかりだから、上流工程のクリエイティブディレクターなどにもなっていない。みんなほぼほぼ、広告業界にいた、という知識を生かして営業になった。

なぜ、コピーライターやプランナーやカメラマンにならないか。と、思われるだろうが、職業選択を妨げたのは「リスペクト」だと思う。写植職人とか「職人」とつく職業は、同じく職人のデザイナーに敬意を払っている。敬意がある人ほど、さあデザイナーになろうか、などと気軽に言わない。よく都市のリーマンが、「田舎で農家でもやろうかな」というが、あれも農家をなめているから出てくるセリフだ。自分の職業に誇りを持っている人ほど、そのリスペクトが、職業選択の幅を狭めちゃう。だから、若いうちしか無理なんだな。若さって、職業へのリスペクトのない期間のことだから。

自分の職業にプライドを持つ、それはほんとに尊いと思う。それがあるから、他の職業へのリスペクトも持てるし、いい仕事につながる。でも、リスペクトもほどほどにして、今は、どんどん、「デザイナー化」していくべき、なんだろう。これからたぶん、あらゆる職業が「○○デザイナー」と呼ばれていき、たくさんの種類のデザイナーが求められるはず。

デザイン的思考とか、コミュニケーションをデザインするとか、経営デザインとか。すでに「デザイン」という言葉は、どんどん拡大解釈されてって、便利に使われている。「なんでもデザインっていうなよ」と思っていてムカつきもしたが、これからは、誰でも「デザイナー」と呼ばれていくようになるんだろう、と、やわらかく考えようと思ってる。まだ、ムカつくが。

さて、これから、どんな景色が広がるか、だが。

例えば。

今後は、合コンで「俺、デザイナーなんだ」と言い出す男が増える。そこで女は、きっちりと問い詰めなければならなくなる。

グラフィックデザイナーなのか、WEBデザイナーなのか、CGデザイナーなのか、ゲームデザイナーなのか、プロダクトデザイナーなのか、ファッションデザイナーなのか、はっきりさせたほうがいい。要注意は、事業デザイナーやシステムデザイナー、デザインコンサルタント。こやつらは、デザイナーでもなんでもない。事業屋ですね、システム屋ですね、ただのコンサルですね、と呼べばいい。何つくってんですか、と聞いて、実体のあるものを何もつくっていないデザイナーをデザイナーと呼んじゃ、今いるデザイナーがかわいそうだ。

でも、AIがすべてを「デザイナー化」していく、この流れは変わらないだろう。

デザイナーになるか、営業になるか。つくる人になるか、つくる人をつなぐ人になるか。職業選択は、究極はそんな選択になる、気がしてる。どっちがいいとかは、ない。ただ、まず「つくる人」に挑戦するべきだ、とは言える。「つくる人への敬意」って、「こいつには、かなわなかった」とか「一流のつくる人になれなかった」という挫折から生まれるから。

そして、自分でつくることを諦めた人のほうが、実体をもたないもっと大きなものを、世の中をデザインできるような気がする。ジョブズみたいに。



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