具体と抽象、主観と客観、ミクロとマクロの行き来
物事を考えたり、人と話したりする時に頭の良さそうな人が使う言葉たちを並べてみました笑
今日はタイトルにある3つの言葉同士の関係性なども考えながら好き勝手に述べていきます。普段の私の投稿とは違い、私の主観を軸に書いていくことも多いのでご容赦ください(主観という言葉を使いたかった笑)
私たちは二項対立で考えることで整理された気になっているし、満足できる
いきなり少し本論とは逸れた話になってしまうのですが、以前のブログでも書きましたが、私たちは物事を二項対立させることが好きだし、どちらかを支持することで明確に世の中の風潮や自分自身のアイデンティティを主張することができます。
だからこそ具体と抽象で考えよう、主観と客観で物事をみよう、ミクロとマクロの視点を持とう、なんてなるわけです。
などがあります。
しかし、大抵世の中にあるあらゆる事象というものは、はっきりとどちらかが正しいと言えることができないし、そもそも正しさというのは何かを軸にした時の尺度でしかないです。
どちらかというと常に二項対立の二つの極を行ったり来たりしている関係性がよっぽど正しいと思えることもあります。
とはいえ私たちはどちらかを支持することで味方を作り、何に対しては賛同していないのかをはっきりさせることができます。私たちは「ウチ」と「ソト」を作り出すことで様々なことを整理しようとしているのです。
二項対立からの脱却が具体と抽象の関係性
この何かと二項対立で物事を考えがちな私たちにとって、その二項対立構造から脱却する方法があります。それがすなわち、「具体」と「抽象」なのです。ちょっと頭がこんがらがってしまうかもしれませんが、ここで言っているのは、具体的なところから抽象化していく作業が二項対立からの脱却方法であるということです。
二項対立をするときに比較されるAやBは多くの場合、同じ次元であるものです。例えば、「りんごとバナナどちらが好きか」、という感じです。次元が違うとなると、りんごと果物どちらが好きか、という比較は成り立たないですよね。
反対に、あるモノに対して抽象化をすることによって、その領域からの脱却を可能にし、もうちょっと広い視野でまた二項対立構造を描くことができます。
こんな感じになりますよね。
このように具体と抽象を行き来することで、いつでも高次元(食べ物と運動)での会話や低次元(りんごとバナナ)の会話を自在に調整することができるのです。
このような具体と抽象を行き来することによって、比較する対象に広がりがありますので、創造的な意見が考えられたり、議論に広がりや深まりができていきます。
よく主観よりも客観の方が称賛される理由
少し話は変わりますが、職場での会議などで議論をするときに、主観ではなく客観的な意見やミクロではなくマクロな視点から考え、主張をすると会議などで称賛されたり、賢いと言われたりすることってよくあるのではないでしょうか。
これは何故なのでしょうか。
先ほど述べた次元の話をしましたが、「客観的に」、「マクロ的」に判断ができるということは高次元で物事を見ることができるということです。高次元で判断できるということは、より多くの事象を包含して考えることができると言えます。つまり、あらゆる立場の主張を考慮しながら論を展開できるとも言えるかもしれません。だからこそ、あなたの意見だけでなく、あの人が気づかなかった視点を含めながら話している人やこういうシチュエーションのときに起こりうるリスクについて主張している人が支持されるわけです。
しかし、果たして主観が間違いで、客観が正しいのでしょうか。
個人的にはこれさえも違和感があります。
客観は主観の集合体、マクロはミクロの集合体、抽象は具体の集合体
ここに記載した通り、最近私がよく考えるのは、客観とは一体なんなのだろうということです。
先述してきましたが、客観やマクロ視点はよく賢い人が考えることだ、なんて称賛されますが、実は客観にも偏りがあるのではないかと思うわけです。
人間には、情報収集をする能力がありますが、もちろん時間的制約や能力的制約によって情報収集にも限界があります。仮にその枠組みの中で情報収集したサンプルに偏りがあったらどうでしょうか。
確かに1人の意見の主観より10人の意見を集合させた意見は客観的と言えますが、100人の意見を集合させたほうがより客観的な意見でしょう。そして、500人や1000人、10000人の方がさらに客観的な意見になるはずです。
つまり、逆説的にはなりますが、その集合体がもう片方の集合体よりも小さければミクロであるとも言えるし、大きければマクロになるということです。
ここでもうお分かりかと思いますが、結局は二項対立のジレンマがここでも発生するわけです。
となると、よく会議とかで話されていること、「客観的に考えると,,,,」「マクロな視点で見ていくと,,,,」というのはあくまでその場を説得させるための話術でしかないのかもしれません。
客観の方が賢く見えるかもしれないが、主観の方が世界は美しくなる
ここまで具体と抽象や主観と客観、ミクロとマクロなどを考えてきましたが、世の中では客観的に物事を考えた方が賢いと言われています。
しかし、先ほど述べたように実は客観的というのは本当は私たちの幻想であり、存在しないのかもしれません。確かに国が出している指標や世界の人口一人一人の調査に基づいた意見を集計して、それを2つに分けたときには確かに客観的な状況と言えるのかもしれません。しかし、大抵はそんなこと不可能ですし、どこかの国のどこかの地域のどこかの属性のサンプルを取っているわけです。その限定的なサンプルであれば、おそらくきっとそれは偏りが存在するでしょうし、つまり客観的ではなく、主観的なものなのではないかと思えてきます。
そして私たちが何かを意思決定するときは、客観的に語っているようで主観的なものであるため、やはり自己実現やこういうことを主張したいというエゴイスティックな部分が重要であるということになります。
確かに私も考えてみたら、〇〇を稟議に通すために何をすべきか、というところを起点にして、〇〇が有効であるということを証明するためにデータ集めをします。こういう風景はたくさんのところで見えるのではないでしょうか。しかし、よくよくその行為自体に焦点をあてると非常にバカバカしいことですよね。だって、あなたは〇〇をやりたいのだから。
山口周さんの以下の著書では、「アート」「クラフト」「サイエンス」という3つの要素に分解して経営の働きについて述べています。
このフレームワークを少し参考にすると、〇〇の稟議を通したい、ということ自体は「アート」の要素であり、〇〇をすることで売り上げが〇〇になる、組織が〇〇になる、みたいな部分は「クラフト」、そして〇〇の稟議を通すために、■■といったデータを集める、検証するというのは「サイエンス」の部分にあたります。
確かに"人が動く"というのはこの3つの要素が連動し、納得したときに起こります。
ただし、大体最初に来るのは「アート」の部分なのではないでしょうか。
ですから、何が言いたいのかというと、表題にあるように最初から客観的に考えるのは実は意外と少なく、やはり主観やミクロ、具体的なケースから自分自身はこうしたい!というアート的な部分からスタートするということです。そして、そのアートを実現するためにクラフトやサイエンスが動き出します。
まとめ
いかがでしたでしょうか。矛盾を孕んだ文章なので、自分でも書きながら堂々巡りをしているのですが、具体的であったと思っても、抽象的であったり、主観的であっても、実は客観的にもなったりします。それは何を二項対立関係にするかによって、数の大きさや規模によってそれがミクロやマクロになりうるということです。
そして、こうした二つの関係性は会議などでよく議論していきますが、最終的には主観的なものを皆で納得するために「クラフト」や「サイエンス」的な要素つまりある側面から見たら客観的なものを材料にしているのではないか、ということです。
ぜひみなさんの具体と抽象の考え方についても教えてください。
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