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塾で働くようになるまで①

今でこそ、ずっと塾で働いていたいと思っているが、学生の時からそう思っていたかと聞かれるとそうではない。

現在、塾で生徒から進路の相談を受ける中で、むしろ中学生や高校生でやりたいことが明確に決まっている生徒を見ると、純粋に「すごいな」と感じている。

私自身、やりたいことが見えてきたのは大学生になってからである。

生徒からも「先生はどうやって進路決めたの?」と聞かれることも多いため、今日から数回に分けて、私がどのような幼少期を過ごし、その後の成長と共にどのように進路を決めてきたかをお伝えしたい。何かの参考になればと。

生誕、そして幼少期

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私は今から40年ほど前の12月、東京都葛飾区で生まれた。「寅さんの葛飾ね」と言っても今の中高生はほとんど分かってくれない。どちらかと言うと「こち亀」と言うと理解を示してくれる。

20代前半まではその地に住んでいたわけだが、人口もそれなりにいていわゆる住宅地。
近くにはスーパー・図書館・公園、そして駄菓子屋と子どもにとっては恵まれた住環境だった。
週刊少年ジャンプは通常月曜発売だが、前週の土曜に購入させてくれた駄菓子屋にはほぼ毎日通っていた。

三人兄妹の長男で、家は自営業を営んでいたため、弟や妹の面倒を見ることが多かった。野球の道具を持って、近所の子たちと試合形式で毎日遊んでいた。

そんな中で小学生の頃は野球・英会話・習字・算盤と習い事もやらせてもらった。
どれも大成はしなかったが、チームで動くことの大切さや物事の考え方、緊張との向き合い方など、「得るものが多く、意味があったな」と大人になってから感じる。

そのような幼少期を過ごさせてくれた両親には感謝している。

中学受験のための塾通い

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ただどんな習い事よりも今でも鮮明に覚えているのは「中学受験の塾」に通ったこと。当時(約30年前)の中学受験はメジャーでなく、クラスに数人しかいない、特別な受験。

勉強もすごく好きというわけではなかったので、なぜ塾に通い出したのかはよく覚えていない。だが新しいことを学べる期待感や優越感みたいなもので毎週ワクワクしながら通っていたことは記憶にある。

そこで出会った算数のM先生。

中学受験の算数は学校で習わないような特殊な解き方をする文章題も多く、それをゲームのように攻略し、裏技を教えてくれる先生に対し、今思えば憧れを抱いていた。

このM先生との出会いが、私を勉強は楽しいものという印象を刷り込ませてくれた

この塾は四谷大塚の準拠だったため毎週テストがあった。
テストの結果で順位や志望校判定、クラス分けなどもされ、小学生ながらにレベル分けされていく。

成績なのでもちろんいい時も悪い時もあるわけだが、塾の先生は結果だけをフィードバックせず、いいところを必ず褒めてくれた

「全体の成績は少し落ちてるけど、算数の文章問題の正答率が上がっていていい傾向だ」

「先週、一緒に勉強した図形の問題ができていて、やっぱりやればできるね」

塾に行くと、自分という存在を認めてくれているようで、居心地の良い場所だった。今現在、この先生が理想としている先生像になっているのは言うまでもない。

小6の時にM先生が異動になり、別教室の勤務となった。地元の駅から2駅先の教室。私は教室を移籍させてもらい、M先生の授業を受けにいっていた。

そして小6の時は授業の時間も長くなり、週4回17:00から21:00までの授業を受けていた。間に小休憩があったので、時には弁当を持って、時にはマクドナルドで軽食を買っていた。小学生にとって、お金を持って自由にマクドナルドで買い物できることも通塾の楽しみであった。ビックマックの美味しさやアイスコーヒーの美味しさを知ったのはこの時である。

余談はさておき、肝心の学習面。

睡眠時間を削ってまで勉強はしていなかったと記憶しているが、塾の時間も合わせると一日4時間ほどは机に向かい勉強していた
今考えるとこの経験というのはものすごい財産で、中学以降、長時間勉強することが周りよりも苦ではなかったと感じている。勉強のスタミナというか、そういったものがついたのだろう。

そして迎えた中学受験の結果はというと、第一志望校は不合格。滑り止めで受けた東京都豊島区にある私立中学校に入学した。男子校である。

小学生当時に自分の思い通りにいかなかった経験をしたことは大きな財産になっているし、この学校でなければ経験できないことも経験できたので結果としては良かった。

次回は中学3年間を書きたいと思う。

続き↓


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