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塾で働くようになるまで⑦

今回から社会人編。
マクドナルドに入社した私のその後をまとめる。

これまでの話(①〜⑥)は以下のマガジンにまとめてあるので、気になる方は先にお読みください。

最初の配属店舗にて

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大学卒業後に最初に勤務した店舗は東京都台東区にある浅草橋店。(写真は違います。)

アルバイトでマネージャーをしていた経験もあり、研修期間はなく(新卒の泊まり合宿みたいなものはあったが)、初日から店舗勤務。

浅草橋店在籍は1年ほどだったが、入社してすぐに姉妹店の蔵前駅前店のオープンもあり、忙しい日々だった。

店舗の近くにはオフィスが多かったが、日本人形のお店や様々な問屋もあった。印象的なのはシモジマという文房具のデパートがあったこと。ビルの中の全てが文房具の売り場。文房具はここでなんでも揃った。

そのような周辺環境なので、平日の昼時は混雑し、土日は近隣で催事がない限りは暇になる店舗。私が学生時代にアルバイトしていた店舗は平日は割と緩やかで、土日にファミリー層がたくさん来店する店舗だったので、真逆の環境となった。

平日のお昼時が勝負のお店。
会社員の方の貴重な昼休みの時間。商品やサービスのクオリティと共に提供スピードが要求された。

恐怖のクレーム対応

そのような環境の中、テイクアウトでは商品の入れ忘れがないように、よくチェックしてお持ち帰りいただくわけだが、それでも入れ忘れが起こってしまうことがある。

そんな時は、商品を届けるためご自宅まで行っていた。

忘れもしないのが、商品の入れ忘れが発生し、ある事務所にお届けに行った時
風貌が明らかに一般の方とは異なる方ばかりの事務所。
お詫びして商品をお渡ししても、一向に怒りは収まらない

「申し訳ございません。従業員の教育を徹底し、同じ時ことが起きないように注力します。」

解決できる行動や言葉はこれ以上ないわけで、それでも1時間ほど引き止められた。

教わったマニュアルが通用しない。笑うしかない、心の中で。そんな人もいるんだなと。

手は出してこないが、威圧的な態度は変わらない。
お店に電話することを伝え、一旦外に出させてもらい、警察に通報した。この時の機転の利かせ方は自分を褒めてあげたい。

この1件で私はこのように感じた。
余程のことがなければ、どんな人とでも対応できるなと。

23歳のときである。日常にはない経験をした。

残念ではあるが、このマクドナルド浅草橋店は私が退職後に閉店してしまっている。今は跡地にバーガーキングが営業中だ。

最後の配属店舗にて

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その後、浅草店に異動となった。

浅草は観光名所で時期によっては大きなイベントもある場所。

三社祭などお祭りの時は、当時では珍しい24時間営業をする日もあった

アルバイト先で私を育ててくれた社員の方ともここで再会し、一緒に働くことができたのはいい思い出である。

しかし浅草店で勤務したのは1年弱

思い出そうとしても、記憶を消してしまっているのかというくらい思い出がない。(当時のスタッフの皆さん、見ていたらごめんなさい。)

こうして振り返ると分かるが、濃い内容を話せるほど気持ちを入れて仕事ができていなかった。

そう、私は社員になってから2年で、あれだけ好きだったマクドナルドから気持ちが徐々に離れていった。

大きな企業なので、一社員ができることは少ないことは今思えば分かるのだが、当時は「もっと自由に仕事がしたい」と思ってしまった。

入社2年で生意気である。

またデフレの時期でハンバーガーを65円や80円で売っていた時代。何のために誰のために仕事をしているのか、分からなくなっていたのもある。

それらは「若さ」という部分も大いにあるが、

仕事に対する飽き
将来に対する漠然とした不安

そんなことなのだろう。在籍期間2年ほどで退職した。

当時の風潮は就職したら定年まで勤めるという考えがまだ多数を占めていた時代。

家族を不安にさせた。
両親に心配をかけた。
私を社員に導いてくれたアルバイト時代の店長にも迷惑をかけた。

今思えば、当時は何かしらの壁にぶち当たっていたのだと思う。それは仕事もそれ以外も。
当時の私にはそれを跳ね返すだけのパワーも気持ちもなかったのだろう。

こうして私は転職先を決めないまま、気持ちで行動したのだった

しかし、私は退職後にまずやってみたいことがあった。

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