僕の通ってた高校ー勉強するとはー

突然ですが、僕は関西のとある中高一貫の私立高校に通ってました。それも学年の半分が東大に行く超進学校です。「平均取れたら、東大に行けちゃう」と言いかえると、そのすごさに驚いちゃいますよね(他人事)

僕にとってその高校は、「誇り」でもあるし、「一生背負う十字架」でもあります。実際、高校を出て2年半がたちましたが、その肩書に助けられたこともあるし、心がちくちくすることもありました。これからもゆっくりと向き合って消化していく所存です。

まあそうやって日々消化中なのですが、今回のnoteではよく聞かれる「なぜその高校を目指したか」「入ってみて実際はどうだったのか」、そして自分なりの「勉強する」ことについての想いを書いてみようと思います。ほんとに話題に事欠かないコンテンツだらけの学校なので、ぐぐったらわかることは割と省略するかもですが、ご了承ください。

なぜその高校を目指したか

まあ目指した理由を述べる前に、どんな高校かをもう少し説明しようかなと思います。僕が行ってた高校は、一学年200名ほどで中学入学組(在来生)と高校編入組(新高生)があります。比は3:1ぐらいで、僕は後者の高校編入組でした。わりとマイノリティ。あ、あとちなみに男子校です。

もともと僕は小中学校時代を普通の公立学校で送りました。小中にはやんちゃなやつもいたし、スポーツ万能なやつもいたし、オタクもいたし、今思えばいろんな人がいたなぁと思います。僕はといえば、部活と塾に時間をほとんど割いてました。

そんな僕がなぜ普通の公立中学から超進学校を目指そうと思ったのか。

その大きな理由は、勉強そのものが面白かったからです。勉強をし続けた最終地点がその高校でした。当時、中学生だった僕は塾に行くのが割と好きでした。先生は尊敬できる人だったし、それなりに頑張ればそれなりに報われる勉強はやりごたえがあるものでした。
さらに、勉強ができるというステータスは、間違いなく自分の将来のためになると思っていたし、同じ塾の生徒との競争も苦しいながらも、心の底では楽しんでたような気がします。(スポ根的な)

そんな風に他の人よりはかなり勉強に時間をかけていた方だと思います。特に中学数学は楽しくて、塾にひとり残って公式の生み出され方とかを一生懸命考えていました。そんなこんなしているうちに、中3になって志望校を定めなければならない時期になってきていました。選択肢は、地元の公立高校or私立の超進学校です。

ここで質問。「進路を決める基準は何?」

ここまで読んできてくださった皆さんに少し考えてほしいのですが、もし皆さんが僕と同じ状況で「どんな高校にも進んでいい」という状況ならば、何を基準に高校を選ぶでしょうか。

できるだけ偏差値が高い高校なのか、特色のある高校なのか、もともとの友達が多い高校なのか、家から近い高校なのか、、、

僕が選んだ基準の一つは、入試問題でした。

僕が通った高校の入試問題は、他とは少し変わっている部分がありました。国語、数学は全部記述式の回答。英語は中3なのにセンター試験より難しい。理科は、問題文が教科書替わりでそこから既存の知識につなぎあわせる。解答時間はたっぷり。「もってる知能すべて使い尽くせ」みたいな挑発的な入試です。そういう刺激的な問題に当時の僕は惹かれました。

正直問題には歯がたたなかったし、先生の解説を聞いても「何言ってるねん、意味わからん、、」みたいなことはたくさんあったけど、これを解ける同学年や、こんな問題をつくる先生はすごいなと心から思わされました。そしてこれがこの高校を受験してみようと思うきっかけでした。

もともと中学校では、友達と勉強の話を思いっきりしようとすると、なぜか距離を置かれるし、塾ですら、唯一先生が勉強に関する話し相手でした。それがやっぱり納得いかなくて、楽しくなくて、こんな高校に行けば楽しく勉強の話ができるかなと思ってわくわくしました。

入ってみて実際はどうだったのか

しかし、現実はそんなにうまくいきませんでした。僕の「勉強が楽しいといっても許されるコミュニティ」への憧れは満たされませんでした。それには二つの理由がありました。

一つ目は、そもそも自分が勉強を楽しめるほどのレベルに至らず、圧倒的に自分の力がなかったことに気づかされたことが原因です。これまでの「勉強が楽しい」はお遊びで自己満足だったと思い知らされました。いわゆる「井の中の蛙」ですね。

例えば、高校編入だった僕は、当時最も得意だった数学が、授業初日からついていけない意味不明な地獄に変わり果てました。それもそのはずで中高一貫は、システム上高校2年生で高校内容をすべて習うので、公立上がりの僕はその進度についていけなかったのです。結局、問題が解けるから楽しかっただけで、真に教科を楽しんでいるわけではなく、他の人より点数がいいという小さな世界のちっぽけな優越感に浸っていたとわかってしまいました。(贅沢な悩みだとよく言われますが、悩みなんて人それぞれでその重大さもまた人それぞれだと思っています)

これで何か自分の軸をぽっきりおられたような気分になって、高1はツムツムと放課後バスケにひたすら時間を費やすダメダメ少年になってしまったのはまた別の話。笑

そしてもう一つ、高校に満足できなかった理由としては、まわりの生徒が「勉強が楽しい」と思っている人はほとんどいなかったからです。まわりの多くは、例えるならば、「受験屋さん」「受験のプロ」だったのです。まるで作業のように勉強をこなしていくスタイルに驚きました。塾の宿題をこなして、定期テストは先生の傾向を読んで、という作業ゲー。ただこのクオリティはめちゃくちゃ高い。ポケモンでいうと、「殿堂入りしてからがスタート」みたいなコンプリートの綿密さ。
僕が想像してた、一つの問題をみんなで考えたり、めちゃくちゃ知識ある友達に教えてもらったりということはなかったけど、「勉強はしなければならない」「勉強はこなすものだ」ということは生徒の中に共有されていたのだと思います。

もちろんそんな人ばかりじゃないし、すごい人はすごいです。高校には、部活と同じように、○○研究会があって(〇〇=数学、物理、化学、生物、クイズなど)、そこに属している人たちは僕の理想の人たちでしたし、○○オリンピックで金賞とかざらにありました。学校の2割ぐらいがこれに当てはまりますね。彼らは生き生きと学んでいました。多分、こういう人たちのために僕の通ってた高校はあるんだろうなぁとも思ったりします。

勉強するとはどういうことか

そんな感じの高校で、僕にとっては未知のことだらけで、不思議な高校でした。ほとんどの生徒が、別に勉強が好きではなくても、「勉強はしなければならない」という強迫観念で動き、そして(不幸にも?)要領がいいからいい結果を出せてしまう。

これに対して、「そんなに勉強が好きじゃないなら、しなかったらいいやん」と思う人がいるかもしれません。実際、彼らはだいたい自分の趣味を極めてます。ゲームとかアニメとか電車とかレゴブロックとかパソコンとか、、、自分の好きなことを極めればいいというのはとてもわかります。

でも、「勉強が必要だ」というのは社会が求めてくることではないでしょうか。どれだけ勉強を極めても、それこそ日本で一番賢くなったとしても、その束縛から逃れることはできないのではないかと感じました。無限に搾取される「勉強できるべき病」ですよね。

そして「学力」と「人格」は切り離されなければならないなんて頭ではわかっているのに、どうしてもこの現代社会に生きていると、学力がない人は学力がある人に対して、引け目を感じさせられます。履歴書だったり、新歓だったり、ふとしたときにいろんな目線を向けられることは誰しも感じたことがあるのではないでしょうか。

僕は、実際に自分の目で「学力の最果ての地」を見て、この現状はおかしいと思いました。勉強ができる人は勉強ができるだけであって、それ以上でもそれ以下でもないと思う。手放しに称賛されることでもないし、「勉強だけで社会を知らないよな」みたいなのもまたおかしい。

じゃあいったい勉強は何のために、わざわざ膨大な税金をつぎ込まれて学校で行われ、多くの人が先生として教えることに自分の人生を賭け、ときには保護者が家計を苦しめるくらいに教育費を捻出し、そして何よりも子供自身が、大事な子ども時代の多くを捧げるのでしょうか。

その答えが、それを極めた人たちが集まる高校にならあると思っていました。でも、そうでもなかった。

そして僕には、彼らもまた「勉強できるべき病」が渦巻く社会にとりこまれた犠牲者のように感じます。もしかすると、そこから逃げる機会を失った分、もっとたちが悪いかもしれません。

ところで、最近、高校同期とよく就活について話します。そいつは「自分がもっとアホなら考えることなく、職業とか選べたんやろな」と言っていて、びっくりしました。この言葉で気分を悪くする人がいたらすみません。でも、これが僕が見てきたものを表す正直なひとつの声だと思います。

結局誰もが、ないものねだり。

確かに「勉強ができる」ことは自分の可能性を広げるように見えるかもしれないけれど、実は選択肢は狭まっていることもある。なぜならば自分に見合うところに行きたくなってしまうから。(ホワイトカラーな職業?)

生まれた社会階層にとらわれないための「教育の力」は、なぜか上位層にのぼってしまうと手放すことのできないレッテルを自分自身にはりつけてしまう。そしてそれがひたすら再生産されてしまう。せっかく努力で手にした学力で、勉強社会をのぼりつめた人ですら、幸せにたどり着けないメリトクラシーはいったい誰のためのシステムなのでしょうか。

「勉強ができて、学歴が高くないと人生で損をしてしまう」という強迫観念に従って、一生懸命頑張れば頑張るほど、自分の常識とは合わない人たちと過ごすことになり、そしてそれに慣れたころには、手放せなくなってしまう人もいる。なんていう壮大な皮肉。

私たちにとって当たり前にある「勉強」は、いったい”誰のために”、”何のために”するべきなのでしょうか。


<編集後記>
最後の方は、思うことがたくさんありすぎて、何回も書き直したんですが、今の僕にはこれが精いっぱいの暫定の結論でした。とにかく伝えたかったのは、「日本でトップレベルに偏差値の高い学校の実情(超主観)」です。

少し前、「身の丈」発言が話題になりましたが、とても心にひっかかる話題でした。「身の丈」におさまることってそんなに悪いことなのでしょうか。「身の丈」を超えまくった僕の高校同期(先述)は、なんだか苦しそうです。僕自身も生きづらさを感じることは多いし、大学同期もまた同じ悩みを持ってる人は多そうです。

今回のnoteでは、全体的に割と絶望的な書き方をしましたが、意外と楽しく高校生活は送りました。笑 実際、僕には合っていたような学校だった気がします。黄色い声援はなかったですが、それなりの楽しさがありました。

高校同期はひたすら個性が強くて、生徒会演説でファンモンのありがとう歌ったり、いまだに浪人してるやつもいるし、YouTuberはじめたやついっぱいいるし、これからが楽しみです。まあこんな奴らの話は、飲み会の時にでも笑

ここまで飽きずに読んでくださった方、本当にありがとうございます。ぜひリアクションくれると嬉しいです。気づいたら5000字目の前、、、

夏休みの間にあと2本くらいは書きたいなぁ

暑いのでみなさん体にはお気をつけて(締め方わからん)

おわり

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