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東京に住む龍 第九話 龍珠①

 私鉄沿線の住宅地の駅前商店街の中程にある、洒落た花屋で和服姿の若い女性が買い物をしていた。明るい茶系の絣に、緑色の帯、帯は太鼓に結んでいて、控えめな刺繍が施されている。二十代に見える見た目には、地味ではあるが、着慣れしていて戦前の中流階級の夫人の雰囲気がする女性だ。

 女性は店頭に並んだ仏花を一瞥すると。奥の切り花が陳列している所に向かった。中年の女性店員が応対する。薔薇・トルコ桔梗・カーネーション等の洋花の見た目が愛らしい新種の花を十本程選び、包ませた。

「奥さん今年も来てくれはったんですか」

 店員はこの客が昨年も来ていたことを思い出した。少女が好みそうなピンクの花と、若い女性が好みそうな深紅の花が包まれる間、女性は店内を眺め、花の種の陳列台の前で品定めをした。纏めて会計を済ますと、花束を抱え数軒先の食品スーパーに向かった。

 酒コーナーで、長身の和服を着た男が日本酒を選んでいた。灰色のよく光る綸子地に炎を意匠化した手描き友禅の長着に、渋い黒の織の角帯を貝の口に結んでいた。夜の銀座辺りに居そうな粋な男を彷彿とさせた、友禅を着ている男が艶っぽい美男子なので、人目を引いてしまう所、店内の客も店員も気にもしないのは、印象を薄める術を掛けているからだ。野守は額の一本角も指の鉤爪も術で隠している。色あせた組み紐の掛かった古い木箱を脇に抱え、反対の手に持ったスーパーのプラスティック籠には、沢山の子供の好きそうな袋菓子やらチョコ菓子とミネラルウォーターが入っていた。

 スーパーの店内に関西弁の男の声で、セールの告知が流れる。行き交う客達も関西のイントネショーンで話す。

「やっぱり此処に居たのね」

 胡蝶は夫に声を掛けた。

「スルメはまだみたいね」

 というと野守の持つ籠に、ビニール包装されたスルメ烏賊を入れた。

「ねぇ、どれにするの」

「これしかないよな、お母さん」

 野守は濁酒の入った小ぶりの酒瓶を手にした。

 夫婦はスーパーを出て商店街を歩く。まだ日も高い時間だ。野守は木箱と大きなレジ袋を幾つか提げて、胡蝶は手に紙袋と大きめの巾着袋、そして先程の花を抱えていた。角の和菓子店に入る。

「これにしない」

 胡蝶が指さしたのは、大ぶりの黒糖饅頭だった。

「これなら喜びそうだ」

 店員にこの饅頭を二個別に包ませた。家族への土産に二十個程餅菓子だの上生だの桃山の類の焼饅頭を購入した。

 和菓子屋の角を住宅地に曲がると、直ぐ住宅は途絶え畑となった、山際の道に入る。道脇の雑草が生えしきった野に足を踏み入れたところで、野守は呪文を唱え結界を開けた。平坦地の草むらの中を踏み固められた道が続く。結界故に動物は行き来できるが、人間は行けない。

 草むらの獣道を少し行くと、里山の麓に椿が名残りの赤い花を咲かせていた。その木の根元に、寄り添うよう小さな石と一回りだけ大きな石が置かれていた。苔生しもう数百年数千年も其処にある様だった。石は墓だった。

 夫婦は荷物を地に下ろすと、野守は石の周辺に結界を張った。胡蝶は紙袋から棕櫚箒を取り出し墓を掃除する。野守は祭祀の準備をはじめた。草を抜いて苔を整えたところで、引き抜いた雑草とは別に集めた、赤い散り椿の中から綺麗な花弁を選び、緑の苔の上に美しく散らして置く。墓の主は女性だった。

 野守は長方形の木箱を開けると、薄葉紙に包まれた、薄桃色の細かい梅の花弁を全体に彫り込まれた切子細工の椀を取り出して、逆さにした蓋に置いた。箱からもう一つお揃いの椿の花のような赤い切子の椀も取り出した。切り子は墓の主と縁のある天人が作った物だ。箱の中から更に。土師器のカワラケを四つ取り出し蓋に並べた。木箱の上に置くと膳になった。麻の小袋に入れた米と、米粉の揚げた菓子を二つのカワラケに盛った。

「ごめんな、水と酒は天国から持ってこれないんだ、現世のものにしたよ、代わりに現世のお菓子を置いていくよ」

 レジ袋から取り出したミネラルウォーターの中身を、午後の日差しで煌めく硝子の切子の椀に注いだ。次いで濁酒をカワラケに注ぐと、

「ミネラルウォーターとは便利な物だな、これが出来る前は沢まで降りて水を汲んで来たからな」

 独り言を言った。野守は懐から白い麻布を取り出すと小さな膳の前に引きのべた。その上に和菓子屋の大ぶりで茶色の黒糖饅頭と、レジ袋をごそごそとして、袋菓子を開けて一部を取り出して盛った。チョコレート菓子と数種の菓子の小山が出来た。

「お前、これを戻して塩で煮たのが好きだったな」

 夫のこの言葉に胡蝶は反応した。スルメ烏賊の包装を丁寧に取り、最後に菓子の前に置いた。胡蝶が墓の傍にあった二つの花入れをペットボトルの水で清め、一つには淡いピンクのトルコ桔梗と薔薇の小花に白い大輪の菊と季節の桃の花を生け、左側の小石の墓に捧げた。二つ目の花入れには、深紅の大輪の薔薇に赤い色のカーネーション等赤い花を生けた。胡蝶が巾着から取り出した粉末の香を互いの額に塗り込み準備が終わる。大陸の寺院を思い起こさせる、強いスパイスの香りがする。

 墓の前に坐った野守は祭祀をはじめた、四千数百年前の古い日本語で、呪文を唱える。後ろに控える胡蝶は、大体の意味が分かる。この墓は、野守の前妻と胎児のまま亡くなった娘の墓だった。香のエキゾティックな香りがするだけで、墓の周囲は風も音もなく、呪文の声だけがした。

 野守は一段と長い呪文を唱えて祭祀が終わった。お互いに知っている、この墓の下には二人の魂はない。日本の神とその同類の妖怪の大人は最近では滅多に死ななくなった。かつては、野守の前妻のように病を得て若くして亡くなる者もいた。だが人ならざる者は、死しても短い期間で、また神の同類に生まれ変わり転生する。二人の魂は此処にない。分っていても野守は墓参りを欠かせなかった。年に一度、椿の花の咲く頃現世に降り立ち、二人の墓を詣でた。

 未だ現世と神々が住む高天原が未分化だった遠い昔、この地で神の子孫である女性とこの鬼は暮していた。高天原は現世にあり天照大神の一族が政事をしていた。黄泉の国と現世との境界もまた糢糊として、人と神と妖が交ざり暮らす時代。通い婚が習いで、この辺りの開けた所、今の商店街辺りに前妻の一族の住まいが有ったのだった。

「鬼百合を一度ここに連れて来たいわ」

「鬼百合より鬼灯だろう、医学部生なんだ。ここ数百年日本冥界の医学生の志望先の人気は、産科と小児科だ。不老不死科に進んでも、密接に関連する科だ。不老不死科は産科の暗部みたいなものだ。来年は首に縄を付けても、鬼灯には来てもらおう」

「鬼百合は女の子だから、感じることもあると思うの。お姉さんが眠っているのよ。

 科学史の授業でこの二人の事を知った時、私泣いちゃったの、宇宙物理学何て医学とは遠い研究をしているけれど、何処かで悲しい想いをする者を減らしたいと想っているわ」

 野守は一人の女性と添い遂げる男だ。前妻が生きていれば、自分と一緒になることは無かったと胡蝶は思っている。

 菓子の存在に気が付いた、烏やら鳶が上空を舞い始めた

 あの世の物を現世に持ち出すことは、禁止されている。鳥に攫われぬよう結界が張ってある。夫婦は慎重に後片付けをはじめた。箱の上の切子の椀の水を、自然石の墓に掛けてガラスの椀を薄葉紙に包み箱に戻した。カワラケの濁酒を苔に振り掛け、あとのカワラケの米と古代の菓子を箱に戻した。米と古代菓子は天国の物なので、米粒と菓子の破片が散ってないか慎重に確認すると、木箱の打ち紐を結んだ。和菓子屋の黒糖饅頭をそれぞれの墓の前に置き直し、スーパーで買った菓子をひとまとめにし、その山の上にスルメ烏賊を置いたのを、二つの墓の前に作った。荷物を整理して、手に持ったところで、結界を解くと。蟻が菓子にたかった。

 何故、魂がない石に祭祀をするのか尋ねたことがあった。心が折れてしまうからだと、野守は胡蝶に話した。

 今は科学者として研究手法を編み出し、魔法でも奇跡でもなく誰がやっても同じ結果が出る事象を、実証したはじめて研究者と云われる。冥界で自然科学を創出した神・妖の一人だ。その野守であっても長い道のりだった。娘の不幸を繰り返させないために、統計で堕胎の基準を定めたのは、三千数百年経た江戸時代だったのだ。

 野守は人の蔑みや研究の物理的困難さは研究を妨げる事にはならないが、心が折れそうになるのが辛いと語った。その上、永らく地獄の刑場で獄卒として働き、後に数千年十王庁で、亡者の裁判を担当していたが、現世が平安時代になった頃、行政官に職が変わった。現在では高天原政庁の高官として、地獄外交の手並みの凄さで国外の冥界でもよく知られる。当時は亡者相手の仕事から権利調整のからむ住民相手に変わり、心労が絶えなかったという。

 夫が前妻の供養を続けていると知ったのは結婚してからだ。都合が付くときは胡蝶も同行する。子供が手を離れたので此のところ毎年付いて行くことにしている。行けば必ず心に小波が立つ。野守が言うには前妻と胡蝶は似ているそうだ。縁者だからか。それでも行きたいのは、科学者として発端となった二人の墓に詣でなければ、それは矜持だ。

 元来た獣道を戻る

「龍珠は配偶者ですと、よく龍の説明をするのだが、実際のところ奴らはどう感じているのだろうか」

 野守は思いついたように言った。

「辰麿君のこと、人間よりずーっと、私達に近い関係だと思うわ」

「あのお嬢さん大丈夫だろうか」

 野守は二人の死後の数十年後に目撃した、ある龍のことをふと思い出した。

つづき 第九話 龍珠 ②

 前話 第八話 白龍 ③

第一話 僕結婚します

東京に住む龍 マガジン

あとがき

いい男が数千年も独り身ではなかった。この星の自然科学はこの男が娘を失ったことが発端だった。

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