見出し画像

寺子屋のリアル - 【識字率世界一:その8】


全国に5万校あった寺子屋

江戸時代、庶民は一般的に寺子屋(手習塾・手習所)に入門して読み・書き・算盤を学びました。

江戸時代の寺子屋の数は手習師匠を称えた石碑や墓などの研究で、文献に記されていない寺子屋が多数存在したことが明らかとなり、これらを踏まえると全国に5万校以上あったと推察されています。

現在の小学校がおよそ2万3,000校なので、人口比率から考えても全国各地にきわめて多くの寺子屋が存在していたことがわかります。

幕末期の手習師匠経験者や寺子屋経験者からの聞き取り調査によって、江戸時代の寺子屋が我々の想像をはるかに超えて多種多様であったことがわかっています。

寺子屋


質の悪い寺子屋もあった

江戸時代後期になると、寺子屋での教育ニーズが急速に高まりました。

学校の制度のない当時は、多少読み書きができれば誰でも自由に寺子屋を開業することができたため、中には質の低い手習師匠も現れました。

当時の書物に以下のような記述が見られます。

弟子が上達しない場合は、自らの書が未熟で指導方法も行き届かないことは言わずに、弟子の不器用や無精を批判する師匠が世間には多い

こうした記述は、手習師匠もピンキリだからよく吟味せよという親に対する注意書きだと目されています。

また、愚鈍な者の入学を拒んだ寺子屋や、結婚相談や書画売買の金儲けに走った寺子屋、なんの学力もない浪人が怪しげな教え方をしていたために「狐を使う」などの風評を立てられ、一夜のうちに出奔したような寺子屋の例も見られたといわれています。


一般庶民からの尊敬を集めた手習師匠

しかしながら、このような悪徳寺子屋はごく一部だったようです。

上述の寺子屋に関する調査でも、約3,000人への聞き取り調査で『手習師匠を尊敬しているか』とのアンケートに約97%の寺子屋経験者が『師匠を尊敬している』と答えており、当時の社会での手習師匠への尊敬の念は絶大だったと言われています。

また、寺子屋に通った子どもたちだけではなく、その父兄もまた約9割が手習師匠を尊敬していると答えており、その地域における手習師匠がどのような存在であったかが伺えます。

師匠の社会上における位置はすこぶる重大であって、自ら一郷一村の教導者たる地歩を占め、ことに村落における寺子屋の師匠は義塾・郷学の師と異なり、収入を目的とせず、かえって己が資を投じて児童の教育に当たったものであるから、郷村生活の実際において隠然重要の勢力を有していた。
・・・義塾・郷学の師は、より多くの営業的であって、収入は寺子屋師匠に優ったけれども、かかる勢力を有することは出来なかった。

手習師匠は領主に次いで尊敬される身分であり、師匠の一挙一動が地域の公私事を左右した例も多く、村内の難しい問題はまず手習師匠の意見を仰ぐということも珍しくないようでした。


公私を超えた師匠と弟子の深い絆

また、寺子屋は個人宅を教室代りにしていたため、ひじょうに家庭的であり、師匠宅と寺子の家庭との間に家族的な交流が頻繁に行われていたと言われています。

例えば、師匠宅へ五節句の贈り物をしたり、新入生の土産物を寺子全員に配ったりしたほか、寺子の髪を切ってやったり、養生のためにお灸を行なった寺子屋もあるほどでした。現在の山梨県のある寺子屋では、毎月数回、師匠の妻が手製の食べ物を子どもたちに振る舞うなどのイベントもあったと記録されています。

寺子屋の年中行事の中でも『七夕』はもっとも盛んなイベントの一つでした。中には前日から寺子全員が師匠宅に泊まり、夜を徹して語り明かし、翌朝には川に行って硯を洗ったり、古筆で作ったイカダに草花を載せて流した地域もあったそうです。

当日は師匠から素麺や饅頭などをもらって帰ったり、また、父兄が酒食を持ち寄って謝恩会を催したところもありました。

アンケートに答えた多くの寺子屋経験者が「七夕は一生の思い出になる行事」と答えており、七夕は寺子屋生活に彩りを添えるイベントだったようです。

寺子屋3


手習師匠は地域社会のインフラの一部

さらに手習師匠との師弟関係は地域社会の生活にも深く関与しており、その関係は生涯続いたと言われています。

・寺子たちがときどき師匠宅に寄って処世上の事柄について相談するのはもちろん、家に慶事があれば必ず師匠を招待して上座に座らせ、村に疑義が起れば師匠の判断を聞いて決め、いかなる紛争も師匠が仲裁すれば必ず治った。師匠が没すれば、寺子一同が葬祭費用いっさいを負担したり、記念報恩の碑を建てたりし、さらに、師匠の墓前は花や香が絶えなかった。

・東京小石川の寺子屋「雲晴堂」の師匠は生涯独身で寺子屋経営も困難を極め、家賃もたびたび払えないほどだったが、寺子が炊事まで手伝って支えた。上野戦争で塾舎は破壊され寺子は離散したが、明治3年に再興し小規模ながら大正7年まで続いた。

・佐渡では、手習師匠の食事を寺子の父兄が提供した所もあった。師匠は自宅に寝に帰るのみで、村民の家を順次回って食事を済ませた。用事などで師匠が訪問できない時には、食事を師匠の家に届けた。

以上の逸話から、師匠と寺子・父兄が如何に深く結びついていたかを表しています。現代の学校が期待されている役割を江戸時代は寺子屋が担っており、そこにはより深い地域との繋がりと尊敬があったように思われます。


まとめ

今回は江戸時代の教育の要、寺子屋について調べてみました。まだまだ薄い内容なので、ちょっとずつ寺子屋の"リアル”を調べていけたらなと思っています。

今回の調査で着目すべき点は、まず寺子屋の数です。やはり『数は力』だと思うので、なぜこの時代にこれだけの数の寺子屋・手習師匠が誕生したのか、この点は今後調査したいと思っています。

またそのクオリティーとして、寺子屋経験者の90%超が手習師匠を尊敬しているというのは比率が高すぎて寧ろにわかには信じ難いレベルです。

なんらかのクオリティーを担保する術があったのか、手習師匠になる人にある程度の共通点があったのか(幼少期に高水準の教育を受けていた人など)、それとも前の記事でも触れた『師匠のことを批判するのはいけないこと』的な宗教観からきているものなのか。

何れにせよ、こうした満足度の高い教育環境を構築できたメソッドを深掘りしていきたいと思います。

今日はこの辺で。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?