最高のゲームと最大のトラブルメーカー

こんなに尽くしているのに、相手は何もしてくれない。




気遣いや心の通じ合いが関わりの中にないので、


寂しくて愛情が冷めてしまった。




長年付き合っているカップルや夫婦、


家族同士のような距離が近い間柄で、


よく見聞きする傾向のある話や現象だろうか。




男性は仕事、女性は家庭をというような古風の暮らしや役割分担が


受け継がれているようなカップルや夫婦の中では、


平成や令和という大激動の新しい時代の流れにおいては


特に起きやすい出来事なのかもしれない。




現代の人間達の感覚だと離婚や別居にも繋がる


可能性がある体験の一つでもあるように見える。




体験や記憶から人の中に作られる自我意識(自我としての自分)は、


愛されている、大事にされているという実感を感じる条件や、


愛されていない、大事にされていないという反応が出る条件が、


とても人それぞれ複雑で多岐にわたる印象。




人は幼少の頃から愛されていない、


大事にされていないという反応が出ると、


物凄く激昂したり、泣き出したり、不機嫌になったり、


急に不幸に突き落とされたような様子が見受けられる。




自殺や殺人にまで繋がるほどの大きな衝撃が起こるケースも存在する。




逆に愛されている、大事にされているという実感を感じると、


急に嬉しそうな笑顔を見せたり、安らいだり、


感動したりする様子を観察できる。




恋愛で本当に好きな人に対しての真剣な告白が受け入れられた時、


本当に好きな人から告白をしてもらえた時と、


真剣な告白が受け入れられなかった時の気分の浮き沈みの差は、


最もその様子の違いが分かりやすく、顕著。




そもそも無から始まった根源の世界では、


愛されている、愛されていないという概念自体がなかったのに、


人の中に作られる自我意識(自我としての自分)が作り上げた、


こんなにも沢山の愛されている、大事にされている、


愛されていない、大事にされていないという


主観的な条件、概念、世界観。




これらは本当に両極端な視点と感じ方を味わえる


刺激的な要素として機能してくれている印象。




無限の創造力と調和だけの世界を生きている大我の意識からすると、


自我の人格にそういった主観的な条件や概念の中にいてもらえると、


念願且つ唯一味わうことができない非常に貴重な


摩擦の感情と思い出を盛り沢山に味わえるようになるという側面がある。




自我意識の方は最高に愛される時間や人間関係、パートナーシップに関する


特定のイメージを持って、そうなれるように


色々と工夫したり、努力したり、


ツインレイのような存在と出会えるように意識したりする。




その過程で片思い、寂しさ、喧嘩、仲違い、イライラ、愚痴、不倫、浮気、


両想い、尽くす喜び、尽くされる喜び、


狂おしいほど愛せる瞬間、感謝など、


自我視点で定義されているポジティブ、ネガティブの両方の


様々な感情の揺れを初めて体験できる。




特に自我意識にとってネガティブ系に属する摩擦側の感情の揺れは、


大我の意識にとっては体験することに心から好奇心を感じている、


より貴重な喜びなので、大我の意識からすると、


最高に面白い刺激的なゲーム要素。




狙い通り人間達は様々な摩擦の感情の揺れを体験してくれているので、


そういう意味では全員がとても満たされる遊びをしていて、


全員がこの地球アトラクションのゲームを順調に進めていると言える。




一方で人間らしい自我の意識からすると、


これ以上ないほどの最大のトラブルメーカー(笑)の一つ。




皆さんも大事にされていない、愛されていないという不満や愚痴、


妬み、怒り、悲しみ、寂しさから起きる


人の不機嫌さや満たされていない様子を


幾度となく体験して、見てきたことでしょう(笑)




人間関係に限った話ではなく、


生きていく上での境遇という視点においても、


私は、俺は、僕は恵まれていない、愛されていない、


大変な家庭で育ってきたんだ、辛い目に遭ってきたんだと、


愛が与えられる質と量に物凄い不平等さを感じるような


体験は生きている中で誰でも経験するもの。




それは、あの家族、カップル、夫婦は、


お互いを尊重して大切にし合って羨ましいなあ、感動するなあとか、


日本に生まれるだけで超豊かで恵まれているとか、貧困問題とか、


そういう捉え方を人々がしている様子から察することできる。




自我意識(自我としての自分)が作り上げた、


愛されている、大事にされている、愛されていない、大事にされていない


という主観的な条件、概念、世界観は、


最高のゲーム要素と最大のトラブルメーカーの要素を併せ持つ。




このままそのゲームの刺激を味わい続けるのも魅力的な体験と時間だが、


もちろん、このゲームから出ることも可能。




そのためには自我としての自分が作り出している、


愛されている、愛されていない、恵まれている、恵まれていないという


反射的な幻覚反応の執着を解いてあげることが深く関係する。




自我のこの幻覚や誤解の反応から自身を解放してあげると、


人間関係の蟠りや生きていること自体の蟠りから物凄く自由になり、


安らぎに満ちた愛おしい現実が起きてくることに気付く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?