見出し画像

徒然草 其三〜菊と刀から始める常識論〜

ご無沙汰しております。1年8ヶ月くらいぶりの徒然草です。この1年半はなんとなく激動の?時間でしたね。其二が2018年の10月でしたから、それから、転職してオーストラリアに渡り、1年4ヶ月。森林火災の夏、コロナの秋を経て今に至ります。

皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
こういう雑多で、テーマのないものを書き尽くための徒然草です。

写真は日曜日トレッキング時に撮った木漏れ日です。自然が近くにあるのに親しんでこなかったなぁとここ5週間思い続けています。楽しいです。

特に書きたいことがあるわけではないのですが、最近、冬だからかな、人肌が恋しくなって来ることがあります。
日本にいるときはもっと排他的な感覚でしたが、日本に帰る前も、日本を出た後もその感覚はまったくありません。日本という風土があぁさせていたのか、日本の職場がそうさせていたのかは定かではありませんが、人見知りとかコミュ障とか、誰のこと?ってレベルですね:)うーん、英語が話せる環境だとちょっと性格変わるのかな、なんて思ったりして。

そうそう、この間、「常識」に関する記述を読んだんですが、著者の名前をど忘れしてしまいました。ご存知の方いたら教えてください。

日本と西洋との対比というあるあるネタなのですが、
日本は事なかれ主義的(菊と刀で言うところの恥の文化ですね)で大多数が従うものを常識と呼ぶのに対し、
西洋は(イギリスの)コモンローに代表されるように、大多数の人が「○○といえば!」って言えるみたいに共通認識としてあり且つ納得できるものを常識と呼ぶのだ(これは罪の文化と僕の中では結びつかなかったのですが)。
と言うのです。

半分は納得できますが、同時に「おや?」と言うところもあるわけです。
事なかれ主義→長いものに巻かれろ→大多数に沿う(→多くの人が信じ込む→「普通」になっていく)→常識となる みたいなフローはわかるのですが、大多数に従う大多数の初めも一人じゃない?って思ったんですね。つまり、善悪の基準の話(内山節だったと思います)に近いのではないかと思うわけです。村落共同体が主流であり善悪の判断基準が共有されていた時代から、移り変わり、主権を握ったものが善を唱える社会へと変わって行ったという話です。その結果善の基準は短期的に変わるようになり、抗うことのできない大多数の弱者がそこに従うために、主流になっていくというような雰囲気の作品でした。つまり、大多数の弱者って、情報を精査する力を持たず情報に踊らされる無能な市民を指すのではないか、と思ったのです。ん?お前もって?そうですね、僕もあなたも無能な市民の一人です。
ですが、どうやって「正しい情報」を手に入れろというんです?マスメディアが四権・ソーシャルメディアが五権など(三権分立を拡大したものですが、国家の権力ではありません。報道と情報の拡散を担う部分ですね)と言われることもありますが。マスメディアにはバイアスと偏見と情報操作が、ソーシャルメディアには情報リテラシーのないユーザーと事実確認を迫られてしまうような大統領がいるわけです。こんな状況で「正しい情報」とはどういうもののことを言うのでしょうか?

昔教科書でもテレビでも、玉石混交の情報から正しいものを選択していかなければならない、と池上彰さんが言う(書く)のをみたことがありますが、僕は池上さんから直接聞いたわけではないので、校閲者によって精巧に作られたあるいは編集者によって巧妙に作られたディープフェイクである可能性さえ捨てきれない世の中です。
イギリスの総選挙前にボリスジョンソン現首相とジェレミーコービン元党首がお互いに賛辞を送り合うディープフェイクを調査機関が作ったことで、首相の支持率も野党々首の支持率?も上がったと言う話を見ましたが、そうやって操作されていくんです。

流言蜚語の世の中。

それでも、僕は流言蜚語万歳!です。中野好夫の悪人礼讃のように。
そこからしか見えない世界もあるし、気づかなければ一生幸せなんですもの。

さて、ランニングに行ってこようかな。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?