書き取って没入する濃密読書
目の表面だとか脳の内側だとかに、見聞きしたり考えたりしたもので出来上がった生活の滓みたいなものが溜まったとき、じぶんとは丸っきり関係のない人たちの悲喜交々を目の当たりにすると、苛立ちがすっと落ち着いたという経験がある人は少なくなさそうです。よく「自分より怖がってる人を見たら怖くなくなった」とか「私の慶事なのに、お祝いに駆け付けてくれた友だちがわんわん泣いて喜んでくれたから、なんか笑っちゃった」とか、そんなエピソードを目にするのですが、あの現象に近いのでしょうか。
自分の疲れを他者に仮託して、共感してもらったような、共感したような気持ちになって、まぁこんなところかなって落ち着いてしまいたくなることが、私にはよくあります。
でも、身の回りにじっと観察しておもしろいような、じっと観察してもいいような人が、そう都合よく居合わせてくれるわけでもないので、私は「あかんわ」と思ったら、とりあえず読書に没入してしまうことにしています。
べつに映画でもいいんですけれど、きちんと音が聞こえなくちゃいけなかったりだとか、始まる時間と終わる時間を自分じゃ決められなかったりだとか、拘束を感じることがちょっとだけ多いので、だいたいどんな環境でも本だけは読んでいられる私にとって、最も楽ちんな「勝手に共感しても問題のない他者」の探し場所になっているわけです。
でも疲れると、目が滑る。
すらすらと読み進められなかったり、内容が頭に入って来なかったりすると苛立ちが募っちゃって、集中がから回って、余計なことまで考え始めちゃうので、はっきり言って逆効果。そんなこともありますよね。
もう長いこと、こういうときにはサッパリと諦めてしまって、読み方を普通の読書から書き取りに変えてしまうことにしています。
よく小学生が使っているような方眼罫の入ったノートを、机の前に座ったまま手の届くところに入れておいて、今日はもうなにも読めないなって思ったら、いわゆる読書は放棄してしまって、手元にある本の目についたところを、まるで国語の宿題でやらされていたみたいに、ただし好きなところや気になるところだけを、どんどん書き写すことにしています。
この書き取りの習慣は、もともとは悪筆をどうにかするために始めたものだったのですが、気が付けばすっかり文章の楽しみ方のひとつになっていました。
大雑把な性格のせいで分かっているつもりになってしまって、つい読み飛ばしていた情報を拾いなおせたり、覚えているつもりだった漢字を久しぶりに手で書いて「こんな形だったっけ?」なんて驚いたり、さっき書いた「あ」と新しく書いたばかりの「あ」のカタチを見比べて、本当に同一の文字になっているのかどうかと疑心暗鬼に陥ったり。
だらだらと書いているうちに、見慣れた文面がどんどん迷路になっていって、それをなんとか解こうとしていると、気が付いたらびっくりするような時間が経っていたりします。
そうなると、最初に「本でも読もうかな」と思わせた、じぶんの中に溜まっていた生活の滓みたいなものは、気持ちよく押し流されていったあと。なんとなくペンを置いて、さっき挫折した個所から読み直してみれば、いつものペースでふわっと読み進められるようになっていることがほとんどです。
読めなくなったら、書いてみる。
音読してみるのもいいと思うのですが、音というのは周りにも伝わるものですし、やっぱり気兼ねなくできる書き取りが、目が滑るようになってしまったときに打つ最初の一手として、最も気軽なように思われます。
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