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全国運動
今月(11月)の9日から15日は「秋季全国火災予防運動」が行われるらしい。自分が生業としている産業のことは熟知はしているものの、以外のことに対しては無知であることは否めない。交通安全運動くらいは、普段よりも取締りなどが厳しくなっていることや、横断歩道などで交通整理をしている住民が多く出ているので、注意をすることはあっても、〇〇運動の終わりと共に意識が薄れていまうものだ。かと言って車両通行共に交通安全全般ととしての法令義務を怠っているつもりはない。

つまり「関心」を持つということが大事である。今の世の中、自分にとって「楽しい」か「楽しくない」かだけが、判断基準になっているのだろうか。関心が無い事には、無知でも参加しなくて良いのだろうか。自分にとって、家族にとって、街にとって、地球にとって、関心が無く、利得を感じなければ、無知で無関心で良いのだろうか。その割には、何か問題が発生した時には、行動ではなく言葉だけで良し悪しを判断するのだろうか。良し悪しには理由は必要かも知れないが、好き嫌いには理由は必要無いだろうに。集団心理が全て正しいとは決まっていないように思えます。

昔であれば「回覧板」(今でも鬱陶しいくらいに存在するが)に記載されていたり、隣人や住民同士のコミュニケーションが盛んだったので、いくらでも関連する「情報」(関連しない、どうでも良い情報や噂話も」は手に入れることができ、これらの情報が、夕飯や朝食の時の家族団らん時に共有することが常であった。なるほど、、、現代はこの「団らん」というのが無いのかも知れない。家族みんなで一か所に集まっている機会が、そもそも希薄になっているのだろうか。親子はもちろんのこと、夫婦間であっても例外ではないのだろう。

どこかのニュースで取り上げていたのだが、「電話が怖い」と話題があった。年代別に統計を取って見ると、若い年代層がダントツで苦手意識が高い数値だった。我々の時代では、コンピューターそのものが社会に無い時代だったので、人同士のコミュニケーションスタイルは、「合う」という行為が一番重要だったが、その次は「電話」、更に「手紙」というアナログの時代だ。遠距離になるほど、通話料もかさむし、若い世代が電話を使用するということは、とても勇気がいる行為でもあった。同級生や同性では、学校や職場で合えば用事は済む。電話ともなれば相手側で誰が出るとはわからないので、異性が対象であれば、それこそ気まずいものである。しかも長電話は通話料金がかさむので叱られる。他から電話がかかって来るかも知れないなど、理由は千差万別である。では、手紙はどうか、これも便箋や封筒、文字のキレイ、汚い、文章力、切手など、あれこれ手間がかかるものである。

ところが、現代ではインターネットやSNSを利用すれば、地球の裏側であっても瞬時にコミュニケーションを取ることができる。更に性能の良い機種を利用すれば、顔を見ながらオンライン動画でアクセスすることも可能で、表情にもタイムラグが殆どない時代である。便利な世の中と言わざるを得ないだろうが、思考が薄いというか目標に向かって達成された後のご褒美というか、達成感というか、苦労して手に入れたというか、辛抱するというか、得られない、得ることが出来ない、無理でも頑張って見よう!何とか頑張ろう!という気持ちを得る機会を失くすような気がしてならない。何でも手に入る時代かも知れない、お金が足らないなら、汗水垂らして頑張るのではなく、親にせがんで見たり、ましてや他人から平気で奪うことへの罪悪感さえも失ってしまうのだろうか。。。

若い世代で電話が怖いというのは、そもそも電話でのやりとり事態を理解していない世代が多くいるということらしい。携帯電話を契約する時は、電話番号を取得するのだが、電話帳には家族や一部の友人だけの数人で、その他、大勢の知り合いには「メールアドレス」が個人のプロフィールの象徴になっているのである。つまり、大半のコミュニケーションは、全てメール同士、SNSなどを使って会話は専用のアプリで済ませているのである。これこそが生活の基盤となっていることに、我々のアナログの世代では戸惑いが隠せない。

社会が急激にアップデートをした。デジタル社会であってもインターネットの普及といっても、時代の変革には時間を要することだが、新型コロナ等によって、緊急事態宣言が世界同時に起こったことで、この時間を要することが急激に短くなった。

前置きが長くなってしまったが、企業の人材採用の基準として、16年連続で一位となっているのが「コミュニケーション能力」である。さて、このコミュニケーション能力とは一体何を差しているだろうか。企業が人に求めるコミュニケーション能力とはどういう事なんだろうか。働くという事は、どういう過程があるにせよ最終的には生活者に製品なりサービスを届けることに繋がるのである。最近のスーパーの一角にある「地産地消」のスペースには、生産者の顔が見える品物が展示されている。私なんかは好んで買い物をしているが、やはりアナログ世代に多いようだ。価格においては安いものもあれば高いものもあるかも知れないが、品物の品質的には若い世代に取っては余り好ましく無いかも知れない。例えば野菜や果物などでは「無農薬」や「有機栽培」が故に、虫食いの後や泥などの汚れが落としきれないものが展示されている。茄やきゅうりなどは曲がっているものが多く、総じて不揃いに見えるのだろうか。

私は前職時代に「有機栽培」を新人社員研修に取り入れ、今も内容は別にしても継続されている。田んぼと言えばお米を育てているので、水張りの後に苗を植え付けて行くのであるが、結構な重労働である。今では機械化が進んでいるので、田植えから収穫まで全て機械を使用する方が効率的に収穫が可能であり、労力も最小限で済む。しかしながら、有機栽培では、時代を逆行するように大半を手作業で行う事と、農薬を使用しないので、極めて重労働であることは間違いない、また、肥料等も石油精製品を使用しないので、収穫においては品質の保証も無く、不均一な場合が多く見られる。

田植えを始めるにあたって水を張っているのだが、田植えをしている最中からオタマジャクシやカエル、ゲンゴロウなど、知っている生物も入れば、名前はわからないが多くの水生生物(昆虫類、両生類、魚類、貝類など)や、これらを餌として狙っている生き物もたくさんいるのである。そして、田植えの次に待っているのが、お米までの収穫で一番重労働と言われている「雑草」取りである。種類まではわからないが、この雑草が最も天敵となるので、早めの対応を求められるのだが、時期的に猛暑の時なのである。これらを取り除く研修の時に参加者の若い女の子が熱中症等を起こしてしまい、以降は農家さんの方で機械で作業する過程を踏んでもらっている。

では、有機栽培以外の田んぼでは、これらの水生生物含め雑草が一本もはえていないのである。「水田除草剤」、これがダイオキシンの象徴されている薬剤なのである。ダイオキシンと言えば、燃焼効率の悪い精製品から出る煙や塩素を含んでいる資材を燃焼させた時に発生させるものである事で、焼却施設や焼却炉、焼却過程や、その素材や資材などと報道されていますが、そもそもの実態としては「水田除草剤」として多くの田んぼで使用されていたのです。その証拠に水を張っている田んぼに、水生生物が見られなくなった事と、田んぼに雑草が無いので、生き物が見られないことが当たり前のようになりました。これらの田んぼに人が足を入れると、真っ赤っかに腫れあがってしまいます。つまりダイオキシン溶液という劇薬の中に浸かっているようなものである。大半の農薬は「水溶性」だから、基準値以下とか水で洗浄すればキレイになると言われても、水道水には雑菌を死滅させるために残留塩素が、そもそも含まれているし、川水で洗浄するといったら汚れているとか言われてる始末で、都合良く「基準値以下」という文言で処理されている。

この基準基準値以下という数値は、大人の成人に対しての表示であり、乳幼児含め胎児にとっては不成立である。整理すると無農薬であり有機栽培された食べ物は、それなりに栄養価(土の養分からも、お天道様からも)、そして人の手がある。農薬は基準値以下であっても、栄養価はバランスを欠いている。破壊されている栄養素もあるとか。また、人間の遺伝子組織には悪さをするとか。。。

コミュニケーションには会話の成立しないモノもあると思われる。何かの穀物など成長させる過程で有名なクラッシックの音楽を聴かせていると言われている。口にしたことは無いが、決してスピリチュアルなものだとは思わないのである。なぜなら「関心」があるからである。

少なくとも「弱者」がいる公共乗物では、席を譲ったらどうだ。いや、座る席が空いていようが、立っていた方が健康的にも良いぞ。寝過ごすことも無いぞ。
昔は学生が座っていたらひっぱたかれたもんだ。。。廉恥心を持った方が良いぞ。