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アイデアはいつ浮かぶかわからない。
むしろひょんなことからというか、ハッとする時など、思いがけない時に気付くと言った方が良いかも知れません。この思い浮かぶというのと、気付くというのでは、何となくニュアンスが同じように思うかも知れませんが、総じて普段よりアンテナを貼っているかどうか、つまり潜在意識として気を張り巡らせている事が大事です。

なにも気を張り巡らせていなければ、ただ単に通り過ぎるだけかも知れないでしょう。

つまり、先人の人は運を掴むというか、チャンスを逃さないという言葉が良く使われます。よって、普段よりチャンスを掴むための行動を心がける。そして何よりも来易いようにしておくことが大切と言われています。

ひょんなことから困ることに風呂に入っている時がある。何も書き留めることができないので、ひたすら暗記するしか無いのだが、いざ上がってバスタオルで水分を拭き取ってメモに向かっている内に、忘れてしまうケースが良くある。。。
私の場合、ひたすら声に出して表現をしている。いわゆる傍から見れば「独り言」である。自分にとってはアウトプットにして「見極めている」段階なのである。つまり、色々なアイデアと言っても無駄に徒労する場合もあれば(ボツ)、仮設をたてて進める場合もあるが、段階的に応じて言葉にしてアウトプットすることで、目的である答えが落とし込めているかどうかが理解できるのである。逆に詰まるという事は、仮設が甘かったりすることで落とし込めていない部分が明確になるからである。上司や後輩にも良く「独り言」が多いと言われる由縁かも知れないし、家族からも「独り言」が多いと言われるのだが「歳を取るとひとりごと」が多いという事で笑って誤魔化しているのです(認知症の症状ではなく、あくまでもアウトプット、ひとりプレゼンテーションであるのだが。。。)

私の場合は若いころから「仮説検証スタイル」が身についているかも知れない。つまり、多くのアイデアの中から上手く進めることができるのが、ほんの一握り、確立で言えば数パーセント以下であることを自らが体験することで、狡さを覚えたからである。先輩や上司に言わせれば、「潰れたアイデアは決して無駄になることはなく、後で活かせるから、引き出しして閉まっておけ」と言われても、私にとっては今の今で無駄になる労力を回避する為であり、専門的インテリジェンスを高めることに全力を注いだからである。まぁ色々な事業の立ち上げや責任ある立場で常に前線にいたから余裕が無かったかも知れない。でもこうやった考え方が、後になって凄くためになったというか、実績として培って来たことは事実であるので、今でもそのやり方が身についてしまっている。

つまり、この他のコラムでも言っている通り「目的」(本質)意識を持つことである。「これは何のために必要なのか」「これは何のためにやるのか」「これは何の答えを求めているのか」という目的に答えを明確にすることが重要だということ。また、不明瞭であれば「仮設」をたてることが大切だということである。この仮設段階において深ければ深い見識ほど、答えが明確になって生産性が高い結果がはじきでる。但し、企業においては常に競合と戦っているので、100%の完成形をまたずに、ある程度の形(概要概念の定義がブレが出ないようであれば)で、実際に運営して行く中でPDCAを繰り返し、バージョンを進化させて進めることが多くある。私の場合は50%〜60%くらいで実行するケースが大半である。

そうしないと折角の実行段階で曖昧な結果になり、継続性を失うことになり信用・信頼を損ねることに繋がりかねない。特に顧客を巻き込んで行う場合などは、要注意企画であり担当部署を設定して常に定期的な検証を行うことを戦略の一環として明文化しておくことが肝要である。

では仮設をたてることとはどういう事か。まずは「主語」と「述語」と「数字」を入れることに努める工夫が大切である。そして5W1Hを意識することが大事です。

アイデアはいつ浮かぶがわからない。同じことの繰り返しかも知れないが、休日であっても常に意識(潜在意識)していることで、目に付くことが多いようだ。また、そうすることで運を呼び寄せ、来易いようにしておくことが大切でしょう。

関西人には愛嬌というかユーモアセンスが普段から身についている。誰かが野球の投球フォームをしていると、知らない人が遠くでキャッチングしている光景や、どこからともなくすれ違いざまに「ストライク」などの言葉が返って来る。言われた側も言う側も不快な表情ではなく、むしろ嬉しそうだ。違う場面では、やいやい意見を評論するのであるが、最後は「知らんけど」で責任逃れをする。まぁ風物詩のようでもあるが、これはおモロおかしくしたいという潜在意識を抑え込んでいない証拠であろう。関東人という表現は悪いかも知れないが、関西人以外では、あり得ない光景だろうか。

なぜ?こんな事を言うかって?そう、私が神戸生まれの関西人だからである。だから、関東圏の電車の中がしんまりしているのは、不思議でしょうがないし、とにかくしゃべっていない人ばかりがいること事態が?である。もちろん、関西に行ったことがある人は、逆の思いを抱くはずである。「ざっくばらん」とか「おおらか」な表現だと言った方が、良いかも知れませんね。何気ない場所で「あめちゃん」くれるオカンに出会うかも知れないし、顔をしかめっ面していると「辛気臭い顔してからに」と説教をするオトンに出会うかも知れない。(笑)

最近は「一流」だとか「二流」「三流」の答え方や考え方などのキーワードが流行っているのか、書籍でもSNSでも良く見掛けるようになった。誰しも「一流」を目指したいのだろうが「一流」と呼ばれたいのかは良くわからないが、「二流」や「三流」と言われるのが嫌なだけなのでしょうね。人よりも劣ることへの心理的な影響だろうか。そもそも、何に対しての一流と定義づけされているのかも良くわからないし、最初から一流の人もいないでしょう。私なんかは二流や三流だと思っているからこそ、いつも学ぼうと思う姿勢を保っています。これらを売りにしているコンサルの人達は何に対して「一流」なのでしょうかね。。。

自分が尊敬する人、師匠と思う人、大切な人、大事な人、彼らは自分の中では「一流」な人なのです。それでイイと思います。それでも人間性を尊重する生き方を実践している人は、様々なところで、「仕組み」を考える思考又は人としての生き方などを好んでいるようです。

冬本番というところでしょうか。今年の冬は懐どころかしみったれたガマンの冬になりそうですね。これだけ物価高やエネルギーが高騰、経済が偏っていては正直者が馬鹿を見るではないでしょうが、景気が悪いのは当然でしょう。そのしわ寄せはいつもご主人様に降りかかるのでしょうね。鍋の回数が増え、暖房ナシの着ぐるみでガマン。大晦日も正月も馳走はナシ。お小遣いは没収、でもお年玉は慣例。お酒さえもナシとは、、、、。こういう年の瀬もあった一興として後世に残して行きましょうぜ(笑)