悪い奴は誰だ 7
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視聴覚室を出ると、森石が膝に顔を埋めるように座っていた。
待たせすぎたかと時計を見る。お昼のチャイムが鳴る少し前だ。割れた窓ガラスに気づいた誰かが来る前に立ち去っておきたいが、森石に声をかけていいのか迷う状況である。
「……た」
「何か言った?」
内容は聞き取れなかったが、確かに森石の声がしたので聞いてみる。
「すぐ行くって言った」
「あー、うん」何の話かと思ったが、ついさっきの話だった。「言ったね」
「……騙したのか?」
ほんの少しだけ顔をあげた森石の表情はよく見えないが、その言い方だと怒っているのだろう。
確かにすぐと言ったのは俺だ。かといって、それ以外の言い方だと森石はあの場を動かないと思ったのだ。
結果的にそうなったとしても、騙したのかと言われるのはさすがの俺でも良心が痛む。ここですぐの感覚は人によって違うんだよと誤魔化すのも一つの手なのだろうが、相手が森石だと抵抗があった。
それなら返す答えは一つだ。
「騙すつもりはなかったんだけど、思ったより時間かかったね。ごめん」
森石は俺の謝罪に対してぶんぶんと首を振った。
「失言だった。そういうことが言いたかったわけではない」
僕は、と続けた森石が手のひらを額にあてる。その手のハンカチに滲んだ赤色を見ながら、さっきの勢いが嘘のように焦燥した姿を見下ろした。
「時間はいくらでもあるし、うまい言い回しが思いついたら教えてくれたらいいよ」
手を差し出す。迷わずに伸ばされた手を掴んで引き上げると、「そうだろうか」と不安そうにつぶやくのが聞こえた。
「まだ、時間は残されているだろうか」
「余命宣告でも受けたみたいなこというね」
「未来が見えないのなら、一寸先はいつだって闇だ」
俺もそう思う。ただ、あくまで俺自身の話であって、森石は違うのだとも思う。
それは当たり前でいて、それゆえに見逃しそうになる。とても重要なことだ。
さて、どう返そうか。掴んでいた手を離して、その背を軽く押して歩き出した。
「未来はさておき、一寸先ぐらいなら闇でもいいと思うよ」
ちゃんと前を見て歩いて欲しいところだが、森石はじっと俺を見ていた。
「闇なんて表現はいい意味では使わないけど、単純に何が起こるかわからないだけなら良いことだってそれに含まれるんじゃないかな」
計画通りに行かないことは不安になるが、それでも今回は悪いことだけではなかった。
「……そうか」
森石は釈然としない様子だ。俺だって同じ事を言われたら楽観主義だと罵っている。
ただ、俺は森石の父親を知っていて、仕事とは思えないほど感情的に俺を嗅ぎ回るおばさんがいるのを知っているのだ。
俺の持論ではあるが、誰かに大事にされるような人間はそう簡単に不幸にはならないようにできている。仮にそうなったとしても引き上げる誰かがいるのなら、安息を取り戻すことはできるはずだ。
「少なくとも森石は死にたがってるわけでもないし、豪打相手に抵抗できる力はあるから大丈夫だよ」
「そう、だな」何か言い聞かせるように森石は言う。「僕が諦めずにいるなら、まだ終わりではない」
「今回の件って、森石にはそこまで重要だったの?」
いや、日常的にあんなことされていれば大事には違いないが、森石は誰にもその話をしなかったし、それに対して抵抗もしなければ、助けを求めることもなかった。きっと豪打が余計なことを言わなければ、そのままだったのではないかと思う。
さすがに、現場を見たらすぐではなくても俺が動いたと思うけど。
「僕にとっては重要だったが、そこまで期待はしてなかった。ただ、今日のことで失敗だったと気づいた。失態と言ってもいい」
俺からすれば一方的にいじめられているというように見えたが、森石の言い方からはそれを全く感じなかった。嫌な見方をするなら、そう仕向けたようにすら聞こえる。
「何を期待していたの?」
「豪打があそこまで僕に悪意を向けるのであれば、いつか僕は豪打か、もしくは別の誰かを憎むかどうかが知りたかった」
「ごめん、全然意味がわからない」
咄嗟にそんなことを言ってしまったのは、憎むという単語があまりにも森石に不釣り合いなものに聞こえたからだ。
「僕に傷をつけた相手は」森石が一度だけ、頬の傷をなぞった。「僕を殺したいほど憎らしく思っていて、それが達成できたなら自殺するつもりだったそうだ」
クラスメイトにただ切りつけられたぐらいで引きこもるのは森石が純粋すぎただけかと思ったが、普通に生きていてそこまでの負の感情を向けられれば、ショックを受けない方が難しい。
「嫌われるのは慣れているが、憎まれたのは初めてだった。彼がいじめられているのを僕は知っていたが、助けを求められなかったから何もしなかった。僕と彼の関係はその程度だ。今でも理由はわからない。似たような境遇ならば、その気持ちが少しはわかるかと思った」
「自分を殺そうとした相手の気持ちを知る必要があるの?」
それを利用するつもりならば知る必要はあるが、森石はそんなことはしないだろう。
「ある。僕は誰にも恨まれたり、憎まれたりはしたくない。気持ちがわかれば、それを避けることができるはずだ」
森石が思っているほど人間は善良ではないし、ちゃんとした行動理由なんて持っていない。
そんなやつらと真剣に向き合おうとするなんて、自分の心を削るだけで何の意味もない。
そのまま教室に行こうとした森石の手を掴んで、俺は階段を下りた。
「松毬?」
「怪我してるんだから、先に保健室だろ」
どうして、この同居人はそんな思考になるのか。聞いても理解できなかった。森石にとってはそうだというだけの事実が、俺にとっては嫌なものである。
「森石、俺の経験上、誰にも恨まれずに憎まれないなんて無理だ。そいつが森石を選んだのは、単純に弱そうに見えたからだよ。人間っていうのは本当に恨むべき相手に立ち向かえない理由があると、その矛先を自分より弱い人間に向けるんだ」
油断すると口調が荒くなるのを気にしつつ、俺は頭をかきむしる。
「森石が考えるべきなのはそんな状態に陥った相手のことじゃなくて、それを向けられた時にどう生き残るかだ」
そんなことを知るために豪打にされるがままだったのを思うと、全くもって面白くなかった。なんだったら、森石に傷をつけた相手を痛めつけに行きたいぐらいである。
暴力を受けるのは痛い。暴言を受け止めるのは息苦しい。それでも逃げられない。強者の動き一つに怯えて、その場の雰囲気に完全に飲み込まれたら、死ぬまでこのままだと本気で思い込みそうになる。誰かを憎んだり、恨んだりする状況というのは、そこから生まれるものだ。
あんなもの自分から知ろうとするようなものじゃない。知らずに生きられる人間は幸せだ。それでいいじゃないか。
「……松毬もそうなのか?」
躊躇いの滲んだ問いにどういう意味か聞こうと思ったが、加害者でも被害者でも俺の答えは一つだ。
「そうだよ」
俺は本来憎むべき相手に何もできないから、そこに強者と弱者がいるなら強者を叩きのめしたくなる。
人間がとてつもなく勝手で移り気なのを知っているから、誰に裏切られてもおかしくないと思うようにしている。
それだけだとどこにも行けないから、母親だけに絶対的信頼を置いているだけだ。
保健室の扉に手をかけて、俺は息を吐いた。
「まつか」
言いかけた森石を保健室の中に放り込むと、ちょうど養護教諭が出てくるタイミングだったようだ。正面衝突しそうになって後ずさる。
「ごめんなさい、森石くん! 今ちょっと急いでい、て」
言いながら森石の姿を確認した養護教諭は、その手の傷を見るなり顔色を変えた。
後ろにいた俺を一瞥する。
「俺は森石が言わないことは言わないよ」
先手を打てば、養護教諭は苦々しい顔つきをみせた。それでもちゃんとやることはわかっているようで、森石に椅子に座るようにすすめる。
俺に何か言いたげな視線を向けた森石だったが、諦めたように腰を下ろした。
「何があったのか聞いてもいい?」
ハンカチを外しながら養護教諭が投げかけるが、森石は口を結んだままだった。
傷を確認しようとする様子に、俺は後ろポケットのガラスの破片を差し出す。言わずともそれに血がついていることを確認した養護教諭が疑いの目を向けるが、否定も肯定もせずに俺は笑ってやった。
この短時間で養護教諭が何を思ったのかわからないが、俺の態度は不信感を煽るものだ。教師に疑われるのは好きだ。それが冤罪であると特にいい。どれだけ教師という存在が正しさを主張しようとも間違えるという事実が俺には心地が良かった。
「松毬じゃない」
流れていた空気を断ち切るような鋭い音に、ハッとしたような養護教諭が森石を見た。
「そ、そう」
「森石は俺を庇ってるだけかもしれないよ」
「先生、そういう冗談は嫌いです」
茶化してきた俺に毅然とした態度で言った養護教諭は、受け取った破片を机に置いた。
何度か俺をパシリに使いつつ、手当をする間に森石に対して質問を投げかけていたようだが答えはない。
包帯を巻き終えた養護教諭は小さく息をついて、そっと森石の手に自分の手を重ねる。
「あのね、森石くん。さっき、花柴さんから連絡があって、視聴覚室で豪打くんたちが倒れているって話があったの。それは森石くんの怪我に関係がある?」
花柴が連絡したのは意外だったが、彼女なりに何か思うところがあるかもしれない。
生徒指導の教師たちに花柴がどう答えるかはわからない。ただ、森石が詳細を語らず、養護教諭の前の俺の態度がこれであれば、彼や彼女たちは勝手に俺と豪打たちに何かあったのだと考えてくれるはずだ。
呼び出しがあるとしたら、どうにか森石だけは先に家に帰したいところである。
答えなかった森石に、養護教諭は憂い混じりの息を吐いた。
「森石くん、つらい時はつらいって言っていいのよ。言われなければ誰にもわからないし、どうすればいいかもわからないわ」
丁寧に語りかける養護教諭は、さすが学校での相談役といったところだ。教師によってはややこしい問題は避けたがるが、彼女はそうではないらしい。
あるいは、相手が森石だからか。
文句も弱音もなくただただ傷ついて通ってくる様を見ていると、もどかしくもなる。そのうえ、森石は何を考えているのか読めないところも多い。わからないからこそ、どうにかその考えのヒントが欲しいと思うものなのかもしれない。
「森石くんのことを助けたいの」
ここまで言われたら生徒としても嬉しいのではないだろうか。
森石は重ねられた手を眺め――勢いよく振り払った。
嘘だろ、ここでそうなるか。
何も問題はなかったように思う。俺のようにひねくれた人間ならさておき、テンプレートとしては泣きながら本音を漏らすところだ。
「さっきの質問に答える。怪我との関係はある」
立ち上がった森石が睨みつけるように養護教諭を見た。
「豪打たちを倒したのもガラスを割ったのも僕だ。手の傷はガラスの破片を武器にした時に出来たものだ。行動理由は、豪打が僕のことを殺すと思ったから抵抗しようとした。松毬は何もしていない。以上だ。他の説明は必要性を感じない」
淡々と告げて呆然とする養護教諭に森石は背を向けた。そのまま歩き出そうとして、俺に視線を向ける。意図を察して後を追った。
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