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60歳で、アメリカの臨床心理大学院に入学したこと


#一歩踏みだした先に

2008年、私はアメリカの臨床心理大学院、日本校に入学した。
シングルマザーで、障害のある子をケアし、フルタイムの仕事をしながら、
経済的にもカツカツの生活。
それでも、どうしても、入学したかった。
その場所に行きたかった。

その前の年、新聞のある小さなコラムの記事が私の心をとりこにした。
そのコラムには、ある臨床心理大学院の修了式の様子が書かれていた。
社会人を対象にした、その大学院の修了生には、母親である学生も多く、子供たちも一緒に参加していたという様子が、楽しそうに書かれていた。
なんて、素敵!
楽しそう!
私もこの場所に行ってみたい。
臨床心理学を勉強したい。
心の底からそう思った。

でも現実は厳しい。

大学を卒業してから38年もたっている。
市役所の介護認定調査員の仕事は忙しい。
嘱託で働いているから、収入が少ない。
そして何より、長女が障害を複数抱えている。
長女の容体が悪化したら、大学院どころか、生活もおぼつかなくなる。
以上の理由で、自分の時間が、思うように持てない。
最終学年のサンフランシスコ研修に参加するとしたら、長女をだれに託したらいいのだろうか。
すると、四女が力強く言ってくれた。
「サンフランシスコに行くときは、私が、ももちゃんを見るよ。」

考え出したらきりがないほど、入学することが厳しい理由が上がってくる。
でも、それ以上に、
「大学院に行きたい」という気持ちが勝ってしまった。

そこからがスタートだった。
入学希望書類を送り、すぐ、英語教室に通いだした。
日本校とはいえ、アメリカの大学院である。
読まなければならない文献は英文のものが多い。
夏季のスクーリングの講師は、本校からやって来る。
そして、最終学年には、サンフランシスコ研修がある。
大学を卒業して38年。
長女が生まれてからは、英語を見る機会すらないほど、無我夢中で生きてきた。
もう自分の名前さえ、書けるかどうかもわからないくらい。
だから、英語を習うことにした。

その教室は、外語大大学院の教授が顧問をしていてるこじんまりした教室で、国費留学生のネイティブの講師に学ぶことができる。
講師の先生たちは、私の子どもより若い人ばかり。
日本語がすごく上手で、優秀な人たちがそろっていた。
週に一度のレッスンだが、その間、日本語は一切使わない。
英語だけで、一時間、会話をするという内容だ。
凝縮してぎゅっと詰まった感じの時間を持つことができた。

とうとう9月、大学院のスタート。
通信制の大学院は、月に一度、土日を利用したスクーリングがある。
スクーリングは日本校へ通学し、あとはオンラインで講義が行われる。
毎月のスクーリングと、夏には10日間の集中講義もある。
オンラインでは、講義のほかに、毎日、ディスカッションが行われた。
スクーリングでも、オンラインでも、発言しないと、その場にいないとみなされてしまうので、頭の中はフル回転。
質問内容を考えたり、自分の考えをまとめたり忙しかった。
この体験で、自分の言いたいことをまとめて発言する力がついてきた。

そして何より、この大学院では、自分のことを知るために、学生は必ずセラピーを受けることになっていた。
わたしは、学校のセラピストリストから、自宅に近いセラピストを選んで、月に一度、通うことになった。
これが面白かった。
私が選んだセラピストは、障害のある人のセラピーを積極的に行い、心と体両方を考える鍼灸師でもあった。
彼は、のちにポリヴェーガル理論を翻訳して日本に広めた人だ。
毎月のセラピーがとても楽しかった。
大学院修了後も、障害のある長女のことで悩んだりすると、話をしに通ったりもした。

次に、この大学院では、3年次にセラピストとして、週に8時間、実習しなければならなかった。
私は大学病院の小児循環器科の病棟カウンセラーの実習を、毎週土曜日行った。そして、スーパーバイザーのもとに通った。
忙しいけど、自分がしたい研究ができる日々は、今まで生きてきた中で一番幸せな日々だった。

3年間コツコツ勉強し、テストを受け、デスカッションし、とうとう修士論文を書くことになった。選んだテーマは、
「自閉症スペクトラムを持つ成人女性の生きづらさ~包括的支援の必要性について~」
私は、学部時代に「自閉症」という概念が日本に入ってきてからずっと、自閉症について研究したかったのだ。
そしてまた、私が大学院に入ったころから、発達障害という概念が、日本に入ってきており、いち早く研究を始めることができた。
そしていよいよ、最終学年、コミュニティ心理学サンフランシスコ研修がやってきた。

長女には躁病があり、躁転してしまうと生活が一変してしまう。だからもし、サンフランシスコ研修の日程に躁転したら、参加はあきらめようと覚悟していた。
ところが、天使は舞い降りた。
長女は躁転せず、落ち着いており、
「行ってらっしゃい」と送り出してくれた。

そこからは四女の、壮絶な毎日が始まる。
長女に何かあったときの連絡先、毎日のスケジュールを10日分ぎっしりと、ノートに書いて四女に託した。さすが、ケアマネ。
それでも、大変な10日間、
ありがとう。
服薬管理、園との連絡、食事の支度、毎日の持ち物。
こだわりのある長女をよく見てくれた。
感謝の言葉しかない。

私が帰ってきた時の四女の第一声は、
「もし今度家を空けるなら、三日までにしてください。」だった。

3年間の履修を無事に終えて、学位授与式が行われた。
日本校とはいえ、アメリカの大学院。
キャップとガウンをまとって、
そこはお約束のハットトス。

そしてそこから私の生活が一変した。
修了式からすぐに、母校のゲスト講師に呼ばれたのだ。
社会病理、高齢者のテーマで、講義をすることになった。
そしてまた、母校主催のパネルディスカッションのパネラーに呼ばれたのだ。
修了したてでも、実力があると認めてもらえる。
そして自分には実力があったのだということを知った。
長い間障害者の母をしていると、社会の下の方に自分を位置付けてしまう。
そして、障害者の母としての評価しか、受けてこなかったので、当然自己評価が低かったのだ。

自分には、教師なんてできないと思っていたが、やってみたら面白かった。なぜなら、難しいことをやさしく説明することが、身についていたから。
知的障害、自閉症の特性のある長女に、世の中の事、聞かれたことを、一番わかりやすい言葉で伝えることが日常だったので、わかりやすい講義をすることができたのだ。

そして、転職。
介護の専門校の講師になった。
高齢者介護と、行動障害が担当である。
並行して、毎年、母校の大学院のゲスト講師も務めた。
ところが、一昨年、母校の日本校が閉校になった。
アメリカの本校はそのまま、継続している。
そして、最後の講義、コミュニティ心理学は、コロナ禍のため、オンラインで行われた。

サンフランシスコと、我が家と、日本各地の学生がつながった。
それぞれの家の様子や、ペットなどの様子が見えてとても楽しかった。
講義のテーマは
「高齢者と障害者のメンタルヘルスとコミュニティ  新型コロナウィルスによるパンデミック下の高齢者、障害者の生活」

このテーマはこれから先も続いていくだろう。
私は博士課程には進めなかったけれど、勉強は続いていくだろう。
障害者、高齢者、コミュニティは私にとって永遠のテーマである。

あの3年間の輝かしさは何だったのだろう。夢だったのだろうか。
人生の後半にこんな素晴らしい体験が待っていたなんて、私はなんて幸せ者なんだろう。


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