私が会社を辞めた理由~仕事=会社ではない。

今年3月に某外資系機械メーカーを辞めた。日本では中小規模の会社だったが一応部長職だったので、自分で言うのも何だが、それなりに認められてはいたのだと思う。でも辞めた。

最後にスイッチを押したのはある部下の裏切り行為(私からの目線では)と、それに端を発した上司のムチャぶりだったが、それ以外にも組織の人事、主に上下関係の在り方には納得行かない事が多々あった。まぁ、どこの会社の中間管理職にもある話だ。それに、仮に裏切り行為だったとしてもその部署の長が私である事には変わりなく、それで責任を問われたなら責任を負うのが私の役目だ。そこには自分なりの引責辞任の意味もあった。

これもまたどこの会社の中間管理職にもある話だが、私も例に漏れず、いわゆるPlaying Managerであった。自らも動き、同時に部下の査定もする。このPlayingの部分、詰まり実務的なところは楽しかったし、私にしか出来ない仕事もあったのでそれなりに承認欲求も満たされていた。海外のチームとは日本支社内の誰よりも上手く行っていたという自負はあるし、そこから得た情報を元に日本のビジネスにも貢献していたと思う。ただ、それらが一切評価されず、部下の裏切りに象徴されるマネージメントの部分だけを切り取って、低評価を受けた挙句に達成不可能なムチャぶり、とくれば、それを聞き入れる理由が私には無かった。失敗する事が見えている仕事を続ける事は私には出来ない。

TBSの半沢直樹が絶好調で私も毎週日曜の夜はこれを見ないと寝れない状態だが、彼があそこまで追い詰めれらるのは「会社」という器に属しながら、本来相反する筈のないその中身、すなわち「仕事」を優先しているからだ。妙な事に器の中には本来すべき「仕事」よりも器そのものを守る事に価値を見出す人達がいて、時に彼らがマジョリティとなる事がある。半沢直樹の戦いは「会社」という器にしがみつきながら、更にそうした人達からの妨害を受けながら本来やるべき「仕事」をしようとするから起こる戦いで、「会社」か「仕事」のどちらかを選んでしまえば終わる戦いなのだ。

私は「会社」という器の部分にしがみつく気はサラサラないのでそんな事では戦わない。そりゃ働いている間は仲間意識もあるし、それなりの愛社精神もあるが、仕事は器の中にあるもので器を守る事ではない。住み心地が悪くなった器などさっさと捨てて、また仕事に没頭できる器を探すまでだ。

器を守る人達は器の中に居る事で得をしている人達で器が無くなった途端に路頭に迷う人達だと思う。こう言っては何だが、私というスケープゴートを作る事で彼らが本来自分たちが負うべき責任を回避しようとしたのであれば愚かな話だ。私はあっさり会社を去り、去った後の会社には彼らがそのまま残る。目先はそれでかわせたとしても、良いも悪いも何も変わりはしないのだ。

損な性格、損な人生だと思う。結果的に今路頭に迷っているのは私である。この世知辛い世の中に年老いた浪人身分を雇ってくれる奇特な会社はそうは無い。きっと今しばらくこの苦しい日々が続くのだろう。ただ、30年余り仕事をしてきてここだけはブレていない。会社の大小や役職、給料の額ではなく、求められ、自分が好きで、得意とする事で社会に貢献する。それが仕事なんだ。オレにもきっとそんな仕事がまだある。

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