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振られた相手を諦めきれないのは執着か


今は昔



2016年12月


こんなお返事をいただいた。


「大変申し訳ございませんが、現在お慕いしている方がいらっしゃいますので、お約束にはお応えできません。」


はやいなー。あれから7年も歩いてきたのか。


いやでもまだ7年しか経ってないともいえるのか。


一度距離を置いた人に、二年後に再開しようと約束をして離れたことがある。

僕は二年という長い期間、諦めなかった。


結果はかくの如きであったが、この結果に対して僕は全く不満に思っていない。


二年間引きずった?



当時から確信があって、今でもそう思うのだが、

ひとえに彼女を愛していたからであって、今でも愛している。

ただし、これは未練があるとかそういう話ではなくて。


まず一等頭に、誰が悪かったかといえば僕が悪かった。

相手は、おおよそ人生の最初の転換といってよい、自分が「やさしさ」を

獲得したきっかけになった女性で、いまでも大変に感謝している。

たいへんに素晴らしい女性だった。


しかしながら、至らなかったのは僕のほうで、だから別れてしまった。



でも、別れたこととは関係なく、彼女への愛は消えなかった。

この愛というのは、好きとか嫌いとかではなくて、


「素敵な人生を願っている」

ということなのだ。

今でもこれは紛れもなく愛情だと考えている。


ちなみに、もう一度チャンスが合ったら付き合いますか?

という質問に対しては


明確にNoと答える。


もう一度、という幻想を抱くことは、現実に向き合うことと

真逆の行為だからだ。

やり直してうまくいくという理想は、誰しも思い描く。

異世界転生が溢れて久しい世の中だが、

それが面白いのは、それが現実ではなく理想だからだ。


理想を追い求めて手に入れようと一歩踏み出したとき、

永遠に幸せはやってこない。

なぜなら一歩踏み出した瞬間に現実が目の前にやってくるからだ。

幸せを求めたはずなのに、踏み出した瞬間幸せではなくなるのだ。


振られた相手を諦めきれないのは執着か


もしあなたが、理想を追い求めている自覚があるなら、執着だと答えよう。


それは、あなたが現実を避けた結果に過ぎない。


ただしそこには救いがある。


2つのことを考える。


①愛と執着


今日、愛と呼ばれる行為は、「特定の個人に向けられた情念」として定着している。

本質的な愛というのは、「相手の実存を受け入れ、その健やかな体と自由な心を願い、応援する」ことだというのは当ブログで何度も述べた。

この本質の愛というのは、実は特定の個人を対象としていない。

それは、一神教にみられるような他国宗教だけでなく、日本に広く浸透している儒教の精神にも、「仁」という概念として表れており、つまり本質的には、家族を大切にするように、隣人も、民草も、平等に大切にしなさいと明示されていたりするのだが、おおよそ浸透しなくなってしまった。


ではこの「特定個人に向けられた」限定的な情念のことを何というかというと、

例えば仏教ではこれを「執着」と呼んでいる。


だから、そもそも個人に向けた愛の気持ちというのは執着なのだ。


肩透かしもいいところだ。


ちなみにじゃあ、子供や弱者に向けた無償の愛も執着なんですか?


というと、これには「慈悲」という名前が付いている。


仏教すごい。


となると、執着かどうかということはなんだか仕方のないことな気もしてくる。


そこでこんな風に考えることを提案する。


②君のエゴがどのくらい混じっているか?


もう一度会うことによってあなたの心がどれだけ満たされるか?


あなたが満たされたいがゆえに相手を利用していないか?


心に手を当てて、お天道様に見られているあなたの心に問いかけてほしい。


塵ほどでも「自分のため」である感情があるならば、それは愛ではない。

「私が愛してあげるんだから彼の為なんだ!」も当然愛ではない。

愛するということは能動的な行為であるので、作用対象がどのような利益を得るのかは関係がない。


本質的な愛のベクトル


あなたが向けた気持ちが愛ではないのなら、

その行為はやめたほうが良い。


あなたが見ているものが現実ではなく、

相手との幸せな未来という「幻想」であるならば、

上記のような理由から、それは決して幸せにはなれないよ、

と忠告する。


手前の欲求を満たすために時間を費やすことは、

愛を育まないだけではなく、愛ではないものを愛だと錯覚させ、

しかも相手が愛を育む時間を機会を奪う。


日々のフラストレーションを酒に酔ってごまかす行為に似て、

目の前の問題を解決するかもしれないが、見えない負債がたまっていく。


いますぐやめよう。


100%の愛をもってもう一度会いたいと願うとき


愛するという行為が100%能動的な行いなんだということを踏まえると、


私は会いたい、私は愛したい


という100%のエゴであるという構造から逸脱できない。


それでもやりたければ、すればいい。

でも、ひとつだけ気が付いてほしいことがある。


もし本当に、あなたが相手の現実と向き合う準備ができていて、


それを誰かにぶつけたいんだ!ということであるならば、

それをぶつける相手は、本当にあなたと別れた人そのものですか?

それとも、別れる前から抱いていた、好きな人という理想のイメージですか?


後者であるならば、あなたが注ぐべき相手は過去の現実ではなく現在未来の現実であって、あなたの人格というのはそうやって成長するものだと考えます。


前者であるならば、ぜひ頑張って。

でも、それで断られたり、返事が返ってこなかったなら。


それを相手のせいにせずに、自分は間違ってないんだと意固地にならずに

しっかりと現実を見つめて、反省を次に生かす、ということが

あなたの素敵な人格をより素敵なものにすると考えています。


終わりに


最後まで読んでいただきありがとうございます。
最近恋愛系の記事多めですね。

ビジネスコーチをやる傍ら、愛について考えるきっかけを提供できればいいなと考え、Xをやっています。

普通に社会人していたらあまり触れられない、でも大事な情報を提供できたらと思いますので、よかったらフォローしてください。


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