人間はつねに追われてる

「助けてくれ!! 追われてる!!」
 ゼミ室の扉をどんッと両手で開け放って、イチルカが希求する。年度末、冬のこの終わり、卒業論文に追われている者どもがゼミにたむろって、ああだこうだと大騒ぎしていることを見越しての強襲であるのは明白。
 ゼミ生たちは、イチルカが両手にする、土器鍋に注目した。人魚のえつけがしてある鍋でふるめかしい。5人分は軽く入りそうな大きさだ。

「お前、卒論終わったってこのまえ」
「やっとカンヅメ終わるってはしゃぎやがって」
「なんだよ、なにしにきた? 裏切り者!」
「追われてるってなに?」

 さほど広くないゼミ室、四方八方から、各々の声があがる。イチルカは手際よく、実験器具であるガスコンロに火をつける。あーっ、叫んで止めようとする者もいるが、イチルカはむしろ彼女を制止した。
「ばかっ! マジ追われてる! 助けてくれよ!」
「追われてる――」

「「「なにに?」」」

 集まってきたゼミ生は、そろって目をしばたたかせる。
 イチルカが鍋のふたをとる。具材がぎっしりに詰まっている。野菜が少なくて肉が中心だ。煮汁は、彼が腕にひっかけているスーパーのレジ袋からでてきた。味噌味の煮込み汁。
 イチルカは、溜め息をいっしょにして嘆く。
「賞味期限に!」

「はあ?」
「ああん?」
「いやもう。帰ったら、どれもこれも賞味期限きれてんの。やばい。オレだけじゃ食い切れない。賞味期限きれてるのに。つうわけでほい、差し入れっつうわけで。食お。昼飯と夜飯はうちの鍋な」
 ゼミ生たちは、そろってピクピクとこめかみに青筋を立てた。が、ぞろぞろとガスコンロの周囲に集まった。イスを持ってきてすわり、なかには参考文献の英文書をひろげながら着席する者もいる。換気きっておこう、と念のためにイチルカが隠ぺい工作をはかる。内緒の鍋会にせざるをえまい。なにしろ大学のゼミ室のたんなる一教室だ。

 ややすると、教授が帰ってきて、「うちのゼミでなにしとんじゃ!!」生徒たちをひとからげに叱った。
 が、教授の晩ご飯も、おなじ鍋になった。賞味期限切れの、足がついた食材たちは、このようにしてきれいにぺろんと胃にたいらげられた。



END.

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