土に帰るか、海に溶けるか? それは問い。
それは不満を募らせていた。一時期、人魚姫なんて童話が出回って、それが自己犠牲であるだの真の愛だの強さだのと評価されていた時代はよかった。
どこぞの同族が、アルゼンセン? なんとか、そういう人間に目撃されてモノガタリを提供したのたは、その頃はまだまぁ仕方ないかと話を済ませられた。
しかし、今やどうだ。
人魚姫の童話がばかにされる。弱者の物語。意思弱き、脆弱な女の成れの果て。失敗談やら失恋の化身、そこに出演する人魚姫はバカな女と扱われるようになり、さらには、読みすらされず、名前とかファンタジックさやら美味しいところだけつまみ食いさらて、そこにある女の強さは見向きもされなくなってきた。
時代は変わったのだ。
人間社会が。
ほかならぬ、人魚姫たちの父親である海神ポセイドンは、不満であった。それはもう。
うちの娘に妙な話をつけてふれまわり、なんたることか。
人間たちめ、なんてやつらだ。
おまえたちが、私の娘たちの何を知っている。泡として溶ける人魚姫を哀れんでいる場合か。たかが50年100年で土に帰るくせして何言うか。
鏡を見ろ、いや自分の足元を見よ。
そこを踏んでいるが、そこに、明日にも腐って溶けて同化する、そんな運命の持ち主だろがい。人間!
ポセイドンはイライラして杖でどんどんと海底を叩くから、娘の人魚姫たちは、コソコソ、うわさをしていた。
お父さま、いつか地上のすべてを洗い流してしまいそう。
あら、地震が起きるのよ。
あらいやだ。人間が海で腐るじゃない。土に帰るんだから、土のうえの連中なんて所詮は土に帰るんだから、放っておいて今を愉しめばいいのにね、お父さま。
「仕方ないわ、アンデルセンの童話をいちばん気に入っていたの、お父さまなんだもの」
それは、事実である。
娘の姿カタチの美しさひとつであそこまで美談を仕上げたことで、ポセイドンは地上を許して今までずいぶんと人間たちに便宜をはかってきた。アトランティスのように沈めたりせずに。古き大陸のように洗い清めたりせずに。
「誰か、続編でも書いてくれないものかしら?」
「無理ね。今のあの人たちは」
娘たちは、コソコソとうわさして、話し合って、どうにか人類の延命を望んでいた。
なぜなら、童話のようには人間に恋ができないからだ。
実際には、穢れきった人類を憎んでいるので、海で死んで欲しくはない、それだけの延命処置希望である。
ポセイドンも人魚姫たちも人間も生きていて生々しくて自身の感情などがあるから、やっぱり、うまく折り合いはつかない。
土に帰るか、海に溶けるか、ポセイドンがどこまで耐えるか、まだ誰も知らない。
END.
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