私のロマンチックな父さんは
タワシひとつで離婚を決めた。馬鹿な。そんな馬鹿な。昨日までの私ならそう、でも今朝の私はちがった。
陶器のマグカップ、ふるびた昭和レトロなガラスのカップ。私の宝物なの。お母さんが私にくれた、たったひとつの。
そう、カレには告げてきた。
そしてタワシでごしごしと洗いものをしているカレがそのマグカップを、繊細なガラスを、たとえそれで大抵は問題なかろうが関係ない、私の宝物を、タワシなんかでごしごしと洗える、その男が無理だ。
そのタワシ、どこを今までに洗ってきた? シンクのなか。銅の汚水受け。三角コーナー。どこを洗ってきた?
今までの家事、洗いもの、ずっとそうだったのか。昨日は言葉が出なくてなにも言えなかった。脱力感もひどくて一気に疲労が襲ってきた。仕事で疲れてんのかな、そう思った。思おう、そう努力した。さっさと寝た。
そして今朝、起きてスッキリと明晰化された頭が私に話しかける。
努力してたよ?
憤怒をがまんして、努力してたんだよ?
私のなかのあの頃の私が、私に泣きついて、母さんがくれたコップがー、なんて泣いている。母さん。人魚姫みたいに恋して消えた、今はもう亡くなった父さんはあのとき私にそう言った。父さん。大好きだった。
母さんは、きらいだ。
でもあのコップは、……ひとつだけ。宝物なんだ。私には。
「……ここまで、か」
私は、ため息をひとつ。
タワシがまさか決定打になるなんてね。お父さんなら、なんて例え話をしてくれただろう?
きっとロマンチックで優しい。
人魚姫が、泡になったあとは、ちゃんと精霊になれたんだよって教えてくれるお父さんだから。きっとタワシだって宝石みたいなきらきらな童話にしてくれただろう。
少しだけ、目からこぼれるものがあった。
カレなんか要らない、父さんと暮らしたかった。介護とかしたかった。なぜ、大切なものは、大事な時間は、あっという間に過ぎてしまうのか。
ロマンチックに言って、お願い。父さん。
END.
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