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オスマン帝国

こんばんは、梅雨空が続きますね。
前回、「帝国の崩壊」という本の紹介でオスマン帝国について書きました。

その後オスマン帝国についていくつかの本を読んでみると、まだまだ自分の理解が浅かったと痛感しました。で、いくつの本を読んで知った事を今回noteに書いてみることにしました。

それぞれ読みやすかったです。

世界史上に登場するのは14世紀、日本では室町幕府成立の頃になります。始まりは小さな侯国とし登場するので、開始時期を特定することは難しいのですが、オスマン帝国の終焉は第一次世界大戦での敗戦後にスルタン(イスラム教国の支配者の称号)が廃止された1924年です。約600年に渡る国家ですから全体を理解するのはとても無理なので、気付いた点をいくつか書いてみます。

スルタンの権力

中世国家のトップであるスルタンは絶対的な最高権力者であり、イスラム教においてもイスラム法学者を従え、国家の全てがスルタンの意志を反映します。ただ国家が巨大化するにつれてスルタンを補佐し、執政全般を担う宰相という制度が生まれます。その後、より大きな大宰相という肩書で官僚機構のトップとして国家を運営していきます。

この大宰相は非常に大きな権力を持つのですが、同時に1つの失策で容易にスルタンの命による失脚(=殺害)という運命をたどります。また、王位継承に関しては兄弟殺しの慣行が長きに渡り行われるなど、とても血なまぐさい時代を経ながら、継承時に内部分裂することなく、スルタンと大宰相が帝国を運営していきます。

その後、時を経るにつれてスルタン自身が親征する事がなくなったり、首都であるコンスタンティノープルから離れて暮らしたりする事も出てきます。そうなると執政全般を担う大宰相に権力が移行するケースが出てくるなど、様々な登場人物や組織の間で権力構造が変化していきます。

初期はスルタンが信頼できる人物を大宰相に抜擢する事もありましたが、徐々に世襲化され権力を持つようになります。また近衛兵であるイエニチェリ軍団が力をつけて反乱を起こしたり、地方の実力者(アーヤーン)が私兵を擁して戦場で功績をあげる中で力をつけてきました。

主にスルタン(宮廷側)と大宰相府側との間で権力の揺れ動きがありながらも、最終的にはヨーロッパで先行した王から国民への権力移行、議会制度などの流れはオスマン帝国でも発生して、明治維新も彷彿とさせる様々な出来事と共に立憲政治へ移行していきます。

帝国での宗教と身分制度

イスラム教は同じ一神教であるユダヤ教やキリスト教を”啓典の民”として配慮しており、ジズヤという税金を払えば信教の自由を保障するという柔軟な面があります。

初期の頃バルカン半島攻略で加えた占領地はキリスト教の人々が多数を占めている中でキリスト教の信仰のまま、もちろんムスリムに比べると様々な制限がありながらですが、オスマン帝国の臣民となっています。

また、戦争において捕らえた兵士などは奴隷として徴収しますが、オスマン帝国での奴隷という身分は我々が思うよりも自由度が高いものでした。そもそも、スルタンの母親はほとんどが奴隷身分であったり、スルタンが大宰相に自分の傍にいた奴隷を大抜擢したりしています。(その方が個人的にも信頼できるのでしょう)長らく近衛兵として活躍したイエニチェリ軍団は、征服したキリスト教の家庭から健康な男子を奴隷として徴収し、教育した人びとでした。彼らの中でも特に優秀な人材は軍隊でなく宮廷に任用されたりもしました。

オスマン帝国の前半は緩やかな身分制と実力主義の中で、奴隷出身者が活躍したり、キリスト教やアルメニア系の商人が経済活動の中心になった時代もありました。しかし後半、近代に入り、ヨーロッパ諸国は対オスマン戦略の戦略として民族自立を促していきます。結果、バルカン半島中心に様々な民族が国家として独立しますが、様々な民族が入り混じる地域において国民国家という概念と国境確定は難しく、コソボ紛争などの悲惨な出来事が起きています。

諸外国との関係

地政学上、オスマン帝国は東ではヨーロッパ諸国と西ではイスラム系諸国と常に戦争状態と一時的な休戦時期の繰り返しでした。帝国は一時期、東はウィーン手前(2度ウィーンを包囲しますが、撤退)から西はバグダートからペルシャ湾に至るまで、加えてエジプト、アルジェリアまで拡大します。

然しながらヨーロッパのような合従連衡は行わず、ある意味外交下手であった気がします。相手国の背後の国と同盟を結ぶ、敵の敵は味方、という戦略は無かったような気がします、大使館を置いたのも他国に比べて遅れていたようです。

人種や宗教を包摂する緩やかな帝国でしたが、近代ヨーロッパにおける国民国家概念に産業革命に僅かながらに乗り遅れたオスマン帝国は、各国との戦争による領土喪失の果てに第一次世界大戦での敗戦を迎えます。

この時、連合国によるアナトリア半島含めた国家分割の危機に現れたのがムスタファ・ケマルです。世界大戦後の1919年に国民闘争を行い、現在のトルコ共和国の領土を保持する事に成功します。半面、トルコ以外の国々はイスラエルを含めて連合国側の思惑によって国境が確定されていきます。

終わりに

アジア、ヨーロッパ、アフリカ大陸にまで版図を拡大し、600年に渡るオスマン帝国にはまだまだ奥深い世界があります。私はまだ表面的な事しか知らないのですが、本を読むたびに新しい発見がありますね。この記事を書きながらGoogle Mapでイスタンブールのモスクやバザールの画像見て、行ってみたくなりました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



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