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勉強の時間 三千世界への旅/アメリカ11

アメリカ独立史まとめ

偶発的な反乱


アメリカの歴史を読むと、その最初からウッダードが分類した初期の移民たち、いろんな主義主張を持つ勢力、ネーションからなる植民地が、対立しながら場当たり的に大英帝国に反乱を起こしたことがわかります。

それが独立戦争にエスカレートしていき、最初は劣勢だったのに、なぜか次第に戦いに勝つようになり、イギリスが植民地の独立を認め、アメリカ合衆国という国家が誕生してしまいます。

独立戦争を始めたのは、最も母国に反抗的だったヤンキーダム、ボストンを中心としたマサチューセッツなど最も北部にある植民地でした。

その南にあるニューヨーク、元のニューアムステルダムは貿易商たちの交易都市ですから、戦争よりも平和の方がビジネスに都合がいいわけで、イギリスとの戦争には反対でした。

その南のミッドランド、クエーカー教徒を母体としたペンシルベニアの勢力も、戦いを自分たちに禁じていましたから、戦争には反対でした。


ならず者とインテリ地主


しかし、ペンシルベニアの西部、アパラチア山脈の麓から山岳地帯に勢力を広げていたボーダーランダー、つまりスコットランド・アイルランドから植民した無法者的な勢力は、イングランドにひどい目に遭って母国を捨てたという経緯がありますから、熱烈に独立戦争を支持していました。彼らはペンシルベニア植民地の総督を拉致監禁して脅しをかけ、植民地を独立戦争に巻き込んでいきました。

その南のバージニア、イングランドの豊かな地主階級の息子たちを起源とするタイドウォーターはイギリス寄りでもよさそうなものですが、その三代目くらいになると、豊かなだけでなく、高度な教育を受けることで啓蒙思想、つまり当時のリベラルな思想を抱くようになっていて、大英帝国の圧政には反対でした。

独立戦争の初期、有名な独立宣言を書いたのは、バージニアの大地主で弁護士、植民地議会の議員でもあったトマス・ジェファーソンです。


農業貴族たちのパニック


その南、西インド諸島の過酷な奴隷活用システムで大規模農園を広げていたディープサウス、つまりカロライナの大地主たちは、どちらかというとスペインやポルトガルの植民地領主に近く、思想的には王政・貴族制に親近感を抱いていました。

しかし、独立戦争が始まると、イギリス軍がアフリカ人奴隷に武器を供給して反乱を起こさせようとしているという噂が広まり、パニックに陥って、イギリス軍と戦うことになってしまいました。

南部でもアパラチアの山岳地帯にはボーダーランダーがいて、独立戦争の混乱の中でイギリス軍と戦ってみたり、大地主勢力の農園を荒らし回ったりして混乱が続きました。


大陸会議から合衆国へ


ネーションそれぞれの価値観は様々で、局面によって色々な混乱がありましたが、こうして6つのネーション、13の植民地のほとんどが独立側になったわけです。

1775年に始まった独立戦争は、イギリスがアメリカの独立を認めた1783年で一応終わりましたが、それですぐアメリカ合衆国が誕生したわけではありません。その時点ではまだ13の植民地があり、その代表の集まりである大陸会議があるだけでした。

軍隊もジョージ・ワシントンを総司令官とする軍がありましたが、実態は各植民地から集まった義勇兵・義勇団で、その主力は北部のヤンキーダムの人たちでした。

ニューヨーク植民地の貿易商たちはまだイギリスの統治を望んでいましたし、南部の大農園主もアメリカが北部主導の独立国になるとしたら、自分たちの貴族的な農業社会と相容れないものになると感じていました。

そんな状態で各植民地の代表がニューヨークに集まり、大陸会議の場で新しい独立国としてのあり方を議論するようになりました。しかし、中には植民地としての意見がまとまらず、代表を送ってこないところもありました。


とりあえず生まれた合衆国憲法 


独立国になるには、とりあえずこの国をどんな国にするのか決める必要があります。それを決めるのが憲法です。憲法は英語でいうと constitution つまり元々は構成・組織・構造といった意味です。国家の構造や構成を定義するので、政体・国体といった意味にもなります。それを決めるもの、国家としての根幹を定義するものが憲法です。

この憲法の草案は、独立戦争中ジョージ・ワシントンの参謀本部副官として働いていたアレキサンダー・ハミルトンと、バージニアの農園主の息子で弁護士、リベラル派の政治家だったジェームズ・マディソンが主に書いたと言われています。

ハミルトンは彼の伝記によると、元々西インド諸島に移民したスコットランド貴族の息子ですが、父が農園事業に失敗し、植民地社会の底辺で働いていたとき、資産家の知人に能力を認められてニューヨーク植民地に留学。大学で法律を学んでいる最中に独立戦争が起きて、独立運動に身を投じたという異色の経歴の持ち主です。

憲法を起草するなら、1776年に独立宣言を書いたトーマス・ジェファーソンや、彼に宣言を書けと勧めたマサチューセッツの弁護士で政治家だったジョン・アダムズの方が適任だったのではないかという気もしますが、彼らはこの時期、外交官としてフランスやイギリスに赴任していました。

憲法を作るのも大切ですが、独立直後のこの時期のアメリカにとって、ヨーロッパのこの二大国とどういう関係を構築するかはそれ以上に差し迫った重要問題だったので、やむを得なかったのでしょう。


憲法のプロモーション


ハミルトンとマディソンは憲法の草案を練り上げただけでなく、合衆国成立に先立ってその趣旨を詳細に説明した論文を『ザ・フェデラリスト』というタイトルで雑誌に連載しています。

論文は77編。これに8編の補足論文を加えた単行本が続いて出版されました。フェデラリストとは直訳すると連邦主義者ですが、この場合は新しい連邦/フェデレーションに所属している国民全員が連邦を運営していく主体としてのフェデラリストであるといった意味なんでしょう。

アメリカ人全員を「フェデラリスト」と呼び、新しい国家像とそれを規定する憲法をアメリカ人全員に理解し、認めてほしいという思いがそこには込められています。

このフェデレーション/連邦というのは、まったく新しい政体ですから、連邦とは何か、主権とは何か、それを運営する制度はどんなものかといったことを逐一説明する必要があったわけです。

ちなみに合衆国憲法のうち、外交に関わる部分を起草したといわれる、ニューヨークの富裕な商人の息子で政治家のジョン・ジェイは、独立戦争中に外交官として活躍した人です。イギリスがアメリカの独立を認めたパリ条約の草案作成者であり、1789年にアメリカ合衆国が誕生してからは、イギリスとの関係調整のため特使としてロンドンに渡っています。


フランス革命と合衆国発足


アメリカ合衆国が発足した1789年といえば、フランス大革命勃発の年です。外交官としてフランスに駐在していたジェファーソンは革命のきっかけになったバスチーユ牢獄襲撃の直前にパリを離れ、ジョージ・ワシントンを初代大統領とする合衆国政府の国務長官に就任します。ジョン・アダムズは初代副大統領になり、8年後に第二代大統領になっています。

アレキサンダー・ハミルトンは初代財務長官に就任し、連邦経済の土台を築くため、中央銀行や関税制度、税関などを設立しました。また、ワシントンの参謀本部で働いた実績や経験から、連邦軍の設立も手がけています。

先ほど触れたように、独立戦争中の軍隊は植民地の軍の寄せ集め、主力はヤンキーダム系植民地の軍隊でしたから、それまで連邦軍も国防省もありませんでした。

義勇兵的に独立戦争に参加した兵士には、給料の代わりに植民地債が支払われていたと言います。つまりアメリカは植民地の人たちに借金しながら独立戦争を戦っていたということです。この植民地債は、連邦政府が成立すると、この政府が現金化を請け負うことになったようですが、そのためには財源がいります。

ハミルトンは財務長官として財源確保の必要に迫られ、連邦政府の関税制度を整えたり、連邦債を発行したりしました。こうしてアメリカ合衆国という連邦国家は、植民地の集まりから統一国家へバージョンアップしていきました。


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