見出し画像

勉強の時間 人類史まとめ11

『世界史の構造』柄谷行人5



古代帝国の交換様式B


古代の国家には周辺民族を征服して国家をどんどん大きくしていくペルシャなどのオリエント型と、都市国家のスケールを維持しながら、外に移住して新しい都市を増やしていくフェニキア・ギリシャ型という、大きくふたつのタイプがあったようです。

柄谷行人は交換様式という観点から見ると、オリエント型の方が中央集権国家として完成されていて、都市国家から脱皮できないフェニキア・ギリシャ型は帝国の周縁に生じた未完成な国家形態であると考えているようです。

中央集権国家という意味では、中国の帝国もヨーロッパよりは完成されているし、ローマ帝国なんかは西洋中心の歴史では世界の中心みたいに扱われているけど、東洋の中央集権国家の周縁でごちゃごちゃしていた国と位置づけています。

日本も中国の中央集権国家の周縁で強力な支配を受けず、つかず離れずの距離を保ちながら独自の、ゆるい交換様式ABCの混合でやってきたと説明されています。

西洋の古代ギリシャ・ローマを東洋の周縁と位置づける視点は、ヨーロッパ中心の価値観に馴らされている日本人にはちょっと違和感のあるとらえ方かもしれませんが、ヨーロッパ中心主義から離れて世界の歴史を客観的に眺めることができるという意味で斬新だし、ある意味有益な視点と言えるかもしれません。

日本人は明治以降、欧米の先進的な文化を取り入れるのに必死で、基本的な価値観もヨーロッパ中心になりがちです。

一方、そういう考え方に違和感を覚える人は、反ヨーロッパ的、民族主義的な価値観に立って、「実は日本人は偉いんだ、すごいんだ」「戦争で欧米に負けたけど、ほんとは欧米に追い詰められて嫌々戦争したんだ」「朝鮮や満州を植民地にしたのも、欧米がやってたことと同じなんだから悪くないんだ」みたいなことを言い出しがちです。

それでは結局、世界を支配するヨーロッパと、自分が属する日本を敵対させることで、民族とか地域の枠に閉じこもってしまうことになります。そうなると、自分が否定したいヨーロッパと同じ低いレベルに自分を置いてしまうといったことになります。

そうならないためには、民族主義的な視点に閉じこもって敵対関係を作り出すのではなく、世界共通の視点から国家や社会を見ることで、世界の仕組みを広い視野でとらえることが必要です。

柄谷行人の交換様式という考え方は、そういう客観的に世界を見る手段として有効かもしれません。


古代ローマ−−−−画期的帝国か中途半端な帝国か


古代ローマもギリシャの都市国家同様、最初はイタリア半島の小さな都市国家で、やはり氏族が寄り集まって統治していました。それが近隣者国に次々戦争をしかけて、負けても体勢を立て直して攻め、ひとつひとつ征服していきます。

古代都市国家は他の都市国家を攻め落とすと、男を皆殺しにしたり、女子供を奴隷にしたりして完全に征服してしまいがちで、先進国のイメージがあるアテネも例外ではなかったんですが、ローマはちがいました。負けた国を同盟国にして、ローマの社会制度やインフラを導入させていったのです。

同盟国と言っても平等ではなく、一応ローマが上なんですが、統治システムや経済圏が広がることで、同盟国も前より発展することができました。ビジネスで言うと、本部が加盟店にビジネスの仕組みを提供してロイヤリティーをとるフランチャイズのチェーンストアに似ています。

アテネも他のギリシャの都市国家とデロス同盟というのを組んで、共存共栄をはかったんですが、この場合はアテネがほかの都市国家と戦争して勝ったわけではなく、ペルシャとの戦争でアテネが活躍したのでリーダー的な役割を担うようになっただけでした。

つまりローマの同盟とちがって本当に対等です。しかもアテネはデロス同盟の加盟料を参加国から集めて、そのお金を自分の国家運営、主に行政を運営する役人の給料にあてました。

さっき触れたように、経済発展していくアテネには経済格差が拡大し、自費で兵士として武器を調達したり維持したりする経済力がない市民が生まれていたので、彼らに国家公務員の職を与えて給料を出す必要があったからです。

こういうことをされるとデロス同盟の参加国は不満を抱くようになり、同盟はすぐに崩壊してしまいます。


ギリシャの失敗から学んだローマ


ローマはまだ田舎の都市国家だった頃、アテネに視察団を派遣して、政治体制を研究したといいますから、こうしたギリシャのやり方の欠点を理解していたでしょう。

対等な同盟関係は美しいけど機能しない。機能させるには同盟国の上に立って統治する必要がある。ただし、統治には統治される側が納得するだけのメリットと、公平な秩序が不可欠である。そのためにローマは法律を発展させていきました。

一方、インフラとしては、同盟国や属州が増えて帝国が拡大していくにつれて、帝国内に道路網を整備しました。人やモノの安全でスムーズな流れが保証されたおかげで経済が発展していきました。

さらにギリシャ型の半円形劇場、ローマ的な円形闘技場や馬車競技用のサーキット、公衆浴場などの社会インフラを各地に建設し、生活は豊かになっていきました。

まだローマの領土がイタリア半島の同盟国連合と南フランスの属州くらいしかなかった頃、シチリアのギリシャ系都市国家とカルタゴ系都市国家の内紛から、ローマはカルタゴとの戦争に巻き込まれ、紀元前218年、カルタゴの有力貴族・武将だったハンニバル率いる大軍団に攻め込まれます。

ハンニバルは天才的な軍略家だったらしく、ローマ軍は敗戦に敗戦を重ねます。

しかし、古代の国家は戦争に負けるとあっさり同盟が崩壊したり、支配下にあった地域が強い方についたりするものなんですが、イタリア半島の同盟国はそうなりませんでした。

ハンニバル軍はローマの同名都市を占領して冬を越しながら、半島に16年も居座りますが、結局領土らしい領土を広げることができませんでした。


証明されたチェーンストア方式の強さ


塩野七生の『ローマ人の物語』では、これをローマの同盟国がローマの共存共栄的な統治やそこから生まれる経済的な繁栄など、同盟のメリットを評価していて、ハンニバルの支配よりローマとの関係を維持しようとしたからだとしています。

『ローマ人の物語』は、古典的な英雄物語の要素が多すぎて、歴史の専門家には評判が悪いようですが、このあたりは一応ちゃんと当時の政治的な背景を踏まえて書かれています。

少なくともローマのチェーンストア型統治や経済政策が古代では先進的で、征服した地域を上から支配しようとするカルタゴよりはいいと、同盟国に評価されていたという見方は、近代の大英帝国や現代のアメリカのグローバル戦略から逆算して導きだされている感がなきにしもあらずですが、ある程度説得力があるような気がします。

ハンニバルがイタリアで支配体制を築けないでいるあいだに、ローマはハンニバルの拠点であるスペインに攻め込んだり、母国のカルタゴを攻略するため北アフリカに攻め込み、カルタゴと同盟国ヌミディアの軍を撃破したり、ヌミディア領内に攻め込んで戦いに勝ち、ヌミディアをローマの同盟国にしてしまうといったことをやっていきます。

このあたりがイタリアで連戦連勝しながらローマの同盟国を離反させられなかったハンニバルとのちがいです。ハンニバルは個人的に天才武将だったけれども、政治も含めた戦略家としてはローマ人にかなわなかったということでしょうか。

このローマ側の反撃を指揮したのがスキピオで、彼はハンニバルとの戦いで何度も負けながら戦術・戦略を学び、優れた武将・政治家に成長した人です。

結局、ハンニバルは本国カルタゴに呼び戻され、有名なザマの戦いでスキピオに敗れて逃走し、カルタゴはローマ軍によって徹底的に破壊されて、滅亡してしまいます。

基本的なローマの対外戦略は戦闘で勝って相手を許し、ローマの先進的なシステムやインフラを導入させて共存共栄していくというものですが、ローマを存亡の危機に陥れたカルタゴのような国は存続を許さなかったわけです。

のちにユダヤ王国もローマの同盟国になり、反乱を起こして属国扱いになり、懲りずに反乱を起こして結局国を潰されてしまいますが、このあたりの統治にはほかの古代国家にない規律というか、まわりの国々を納得させるルールがあって、そのあたりも帝国運営がうまいという気がします。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?