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自死遺族の私が気づいた“死にたい”という気持ちの正体

この記事は自死遺族体験が含まれます。センシティブな内容のため、無理のない範囲でお読み下さい。また、私はメンタルの専門家ではなく、あくまで自死遺族の立場で書いておりますので、その点ご了承下さい。


私の姉は、27歳のときに自ら命を絶ちました。

精神障害を患っており、精神病院に入院していたこともありました。


姉が亡くなったとき、私はその前年に就活を一切しないまま大学を卒業し、

家に引きこもっていました。


姉は自営業をしていて一軒家を借りていましたが、

私たちの住んでいた近所の実家から、毎日そこへ通っていました。


姉が亡くなったときの記憶は、実はあまりはっきりしていません。

私自身が体調を崩していて、身体が重くて動けない日も多く、

寝ていたところにいきなり水を吹っ掛けられたような衝撃はあったものの、

感覚がところどころぼんやりした状態でした。


ただ、姉がなぜ死んでしまったのか、それだけはなんとなくわかりました。

姉が亡くなった夜、私は母に姉がなぜ自殺してしまったのか、自分なりに説明したのを覚えています。


姉は、自分で自分のまわりに“地雷”をうめていってしまって、

身動きが取れなくなったんじゃないか。

そんな状態から助かる唯一の最終手段が、自殺だったのではないか。


若くして結婚、離婚してシングルマザーになったものの、

精神疾患を抱えていた姉の生き方を、私はずっと理解できずにいました。

そんな姉の心情を説明した自分に、正直心の中で驚いていました。


そして、それから10年以上経ちました。

その10年の間に、姉の死についてさらにわかったことが2つあります。



“当たり前に生きること”を期待されることが時として“凶器”になる


姉には、子どもがいました。

友だちもたくさんいました。

自営業で、バリバリ働いていました。

一方の私は、友人もおらず、無職の状態で家に引きこもっていました。

はたから見たら、私の方が自殺を選びそうな環境でした。

けれど、当時私はしんどいとは思っていましたが、死にたいとは思いませんでした。

なぜだろう。なにが違うのだろう。


それは、まわりからの期待の違いでした。

姉は、一時は精神病院に入院したものの、その後退院し、個人経営者としてバリバリ仕事をしていました。

一見、健康で充実した生活を送っているように見えました。

それはつまり、

家族や同僚や友だちから、“生きること”を当たり前に期待されていたと言えます。


けれど、もし心の中で、“死にたい”という気持ちを抱えていたら。

そんな中、まわりから“生きること”の期待をされていたら。


自殺をしてしまうときは、自己肯定感が恐ろしく低下しているときです。

低下するというよりも、粉々に砕かれて、自己肯定感という概念すら存在しない悲惨な状態になってしまっているときです。


そんなときに、まわりから、自分は“生きていて当たり前”だと思われている。

けれど、自分の中には“死にたい”という気持ちがある。

それはつまり、まわりの人たちの期待を裏切ってしまっている、ということになります。

まわりから“生きていて当たり前”と思われること

そのことが、

ただでさえ罪悪感と自責の念で埋め尽くされた姉の心に、

負荷となってしまっていたのではないか。


皮肉にも、

“あなたに生きていてほしい”、という願いが、

本人にとっては、“凶器”のようなものになってしまっていたのではないか。


“自殺する危険性が高いのは、どん底にいるときよりも少し回復したとき”と言われるのも、

この、少し回復してきたタイミングで、

“死にたい気持ち”と、“生きていることが当たり前とされる現実”のはざまで、思い悩んでしまうからなのかもしれません。


生きようと思った先に見えたものが自殺だった


死を“否定”するために、死を“選ぶ”。

がんばって生きようとした結果、死を“選ぶ”。


一見矛盾しているようですが、

もしも、生きたいと思って、生きようと思って、

がんばってがんばって、つらいことを耐え抜いて登り切った山の頂上に、絶望しか待ち構えていなかったら。

希望を信じて頑張って登ってきたのに、がんばって疲れ切った自分を待ち受けていたのが、絶望だけだったとしたら。


ずいぶん前に、平野啓一郎さんの自殺を題材にした小説「空白を満たしなさい」が、テレビで特集されていました。

そこで、自殺が起きてしまうメカニズムとして、“分人”という言葉を使って説明されていて、妙に納得したのを覚えています。

簡単にいうと、自分の中にはたくさんの自分がいて、それを“分人”という。

自殺とは、“生きたい”と願う分人が、それを邪魔してくる、嫌な分人を消すために起こしてしまう行動である。


自殺の背景には、ネガティブな理由があるのではなく、

むしろ、生きようと思う。生きたいと思う。

けれど、それがかなわなかったとき。

まるで引いていった波が、より大きくなって返ってくるようにして、

死にたいという気持ちに襲われてしまう。


姉が死んだ直後、私は姉に対して、悲しみよりも怒りを覚えていました。

こんなことを書くと、薄情な妹だと思われるかもしれませんが、

姉が亡くなったことよりも、家族が悲しんでいることのほうが耐えられなかったのです。

姉は、死ぬことでラクになったのかもしれない。

やっと、すべてのつらいことから解放されたのかもしれない。

けれどそれは、世界一自己中心的で自分勝手な方法でした。

今目の前に姉が現れたら、思いっきり顔をひっぱたいてやりたい。そう思っていました。


自死遺族は、“被害者”にはなれません。

私は、“私の知らない姉”に、“私の知っている姉”を殺されてしまった。

そう感じていました。

自死遺族は、“被害者”なのです。

けれど、自死遺族は心のどこかで、

“自分が救えたのではないか”

“自分が自殺に追い込んでしまったのではないか”

という、加害者意識を持ってしまいます。


そんなとき、この

“生きようとした結果、死を選んでしまった”、

という考えにたどり着いたとき

私自身が救われたような気になったのです。


姉は、生きようと思っていた。

生きようとしてくれていた。

けれど、うまくいかなかった。

姉の死は、生きようと思っていたからこその結果だったのです。


今苦しい状況を抱えている人に言いたいこと


自死遺族として、ここまでいろいろと書いてきましたが、

自死遺族でも、親を亡くしたのか、兄弟なのか、子どもなのか、配偶者なのか

家族を失ったからといって、自死遺族としての経験がすべて共有できるわけではないと思っていますし、

ましてや私は、

死にたい人の気持ちが理解できる、とは思っていません。


姉の死を経験し、自分なりにいろいろ考えてはきましたが、

それがそのまま、他の人の苦しみを理解するのに役に立つとは思いません。

10人いたら、10通りの死にたい理由があり

その人の苦しみは、その人にしかわからないと思っています。


けれど、死にたいと思う自分が、本当の自分だとは思わないでほしいのです。

死にたいと思っていて、いいのです。

ただ、それが自分のすべてだとは思ってほしくないのです。

死にたいと思う自分は、形は違えども、誰のうしろにもいるのです。

それが発見されず一生を終える人もいるだろうし、

姿かたちをともなって、目の前に立ちはだかる人もいます。

私のように、家族の死を経験したことで、自死遺族特有の“死への恐怖”を持ち、それと折り合いをつけながら生きている人間もいます。


私には、死にたい気持ちを抱える人の苦しみや悲しみを理解することはできません。

そして、その苦しみや悲しみは、無理に理解される必要はないと思っています。

その代わり、自分の中でそれを大事にしてほしいのです。

大事にしていく中で、生きていくヒントが生まれてくると思うのです。

大事にするというのは、それが必然だったととらえなおしたり、受け入れたりするのではなく、

その苦しみや悲しみに、きちんと人権を与えてあげて、

自分の中で、苦しみや悲しみとして存在することを、許してあげてほしいということです。

そうして大事にしていけば、生きていても人生いいこともあるんじゃないか、ということが見えてくると思うからです。


けれど、これは死にたいと思ったことのない人間の考えなので、

しょせんは、当事者ではない立場からの考えにすぎません。


ただ私が伝えたいのは、

死にたいと思っていてもいいということと、

死にたいとまで思ってしまったその苦しさや悲しさを

自分だけは、大事にしてあげてほしいのです。

そして、その苦しさや悲しさを背負うのではなく、

自分がより幸せに生きていくための手段に変えていってほしいのです。


やはり自死遺族として、

死にたいと思う人には、なんとか生きていてほしい。

そう思っています。




ここまで、お読みいただきありがとうございました。

この記事が、少しでもどなたかのお役に立てば幸いです🍀




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