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境界線を越えること…

英雄は影に支えられ、陰に悩まされる存在である。

憧れる対象を英雄だとすると、真っ先に思い浮かべる存在を挙げると映画やテレビで活躍する俳優や、音源と歌詞で代弁する音楽家なのだろう。

しかし、英雄は神ではないので完璧な存在ではない。
仮に英雄が俳優だとすると、スクリーン上に映される姿は観る者を魅了して止まない事だろう。
何よりも、役者の演技が達者なだけ観る側は現実と非現実の「境界線」を区別する事が困難となる。
結果的に観る側は役者の演技に酔いしれるのと同時に、騙されているのだ。

冒頭で説明した通り、俳優は神ではない。
それ故に、俳優にも私生活もあれば趣味や触れられたくない事柄もある。
しかし、俳優を愛し過ぎるあまり、現実と非現実との境を理解できずに事件に繋がるケースも珍しくはない。
例えばストーカーというのもこの様なケースに結び付く。

で、ストーカーが行き過ぎると狂気と化す一例を紹介したい。
一線を超えたと言うより、境界線を壊した恐ろしい映画だ。
邦題「ファナティック ハリウッドの狂愛者」である。

この作品を通し最も驚いた点が、ジョン・トラボルタが狂愛者を演じている事だろう。
平たく述べるとストーカーだ。

ジョン・トラボルタが演じるムースは冴えない中年男性だが、唯一目を輝かす点は、デヴォン・サワが演じる俳優ハンター・ダンバーをこよなく愛するファンの一員である事だ。

とっつぁん坊やのジョン・トラボルタ

ある時、ムースの知人が営む店でハンターのサイン会が行われると知り、ムースはなけなしの金を叩きハンターが演じた物と同じベストを購入し、サインを求め行列に並ぶ。

いざ、ムースの番となると、突如ハンターは会場を抜け出し裏口から姿を消す。

ムースにしてみれば待ちに待った機会なのに、途中で抜け出す事に疑問を感じた。
ハンターの後を追うと、車の運転席に女性と後部座席に幼い男の子がいた事を確認する。
何やら、ハンターは運転座席の女性と口論をしていた姿を見た空気の読めないムースはハンターと女性の間を割って入る形で、「サインを下さい…」とハンターにねだる。
劇中では語られなかったが、どうやらハンターと妻は別居中なのか、または離婚した後なのか、息子の送り向かいの当番について揉めていた様だ。

ムースの行動に対し、ハンターからしてみれば私生活を土足で踏み入ったムースの対応に腹を立てる。
これを機に二人は運命に翻弄される。

片やムースにしてみれば、最愛なる英雄からサインを拒否された事に複雑な思いが駆け巡る。
それに、難しい事をハンターに要求しているのではなく、単純にサインを書いて欲しかっただけなのだから。

不条理な物事を解消できないムースは、唯一の友人である有名人のゴシップだけを扱うカメラ・ジャーナリスト(平たく言うとパパラッチ)であるリアに相談する。

因みにこの作品はムースではなく、リアの語り口で物語が進む。
その為、リアの存在はこの作品では欠かせない存在となる。

本題に戻り、リアは職業柄、有名人の欠点や私生活を写す事で日銭を稼ぐ商売だ。
ムースがハンターを崇拝している事は把握していたので、リアは有名人の所在が解るアプリを紹介する。

リアから紹介されたアプリは馬鹿にできず、ハンター以外の有名人の所在まで鮮明に紹介される事にムースは驚きが隠せなかった。

やがてムースはハンターが住む場所を訪れると、ジョギング中のハンターと息子と出会すのだ。

真っ先にハンターは気付く。
サイン会にいた『馬鹿』だと。

更にハンターはムースに対し脅しを仕掛ける。
「二度とこの周辺を嗅ぎ回すな!」

懲りないムースは再度ハンターの敷地内に入ると、2階にの窓から映る不審者を目撃した家政婦がムースに近寄る。

やがて口論の末、ムースは家政婦と揉み合うと押し倒した末、誤って殺害してしまう。

それからというもの、ムースの行動がエスカレートする。
ハンターと息子が住む家に息を潜みハンターの寝顔を確認したり、その様子をSNSに上げたりする。

ムースの行動に疑問を感じたリアは、露骨にSNSにハンターの私生活を上げた画像を見て心配する。
「まさか、あのアプリでハンターの家を見つけて侵入したのか?」
ムース本人は気付いていない様子だが、ファンからストーカーと化していたのだ。

ハンターの家のダイニングテーブルに置かれたヘラシカ(ムース)のツノを頭に乗せ、「ムースだぞ!」と叫ぶ。

ストーリーテラーであるリア曰く、「ムースは境界線を超えたのではなく、境界線を破壊したのだ…」と語る。

最愛なる英雄であり、俳優であるハンターの口から自己否定されたムースは正気を失う。

観賞後に感じた感想は、実にクレイジーであるという言葉に尽きる。
実際にストークされた事はないが、似た様な経験がある。
ボキは大人なので、この場で詳細は述べないまでも、要するにクレイジーな人間を相手にしてはならないという事である。
またクレイジーな人間ほどクレイジーであると自覚していない。
それなのに、年甲斐にもなく自撮り、今風で言うとセルフィーって言うのかな?
そんなオッサンやオバサンがSNS内で目立つ。

過去の栄光は未来には通用しない事を、↑空気の読めない(例えばk.yとか?!)中年は大いに学ぶべきだろう♪

今回のジョン・トラブった!にならぬように。
いつ、誰が何時、クレイジーになるか分からないので、スマホやSNSは便利なツールではあるが、ある意味、堅苦しい世の中であると痛感してしまう…

わーお!


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