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空白の埋め方

誰もが忘れたい空白期間はあるはずだ。
例えば思い出すだけで恥ずかしい事柄や、仕事での失態だの、出来る事ならリセット、もしくは埋めてしまいたいと願うのはごく自然だと思う。

こういった時に最適な映画を連想してみた。
邦題「MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間」
題名の通り、ジャズ界の帝王と称されたマイルス・デイヴィスを題材にした内容だ。

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この作品の面白い点は、主演を務めるドン・チードルが監督を兼任している点だ。
しかも、実際マイルスは1970年代後半から約5年間は音楽活動から退き空白の時を過ごしている。
そこに着目した所から物語が進行する。


ある日、ローリングストーン誌の記者デイヴ・ブレイデン(ユアン・マクレガー)が訪れる。
デイヴは若かった事もあり、貪欲にマイルスからとくダネをものにしようとする。
話を繰り返していうるうちに意気投合したマイルスとデイヴは二日間過ごした。

それから物語は進み、突如マイルスの最新作のマスターテープがギャングに盗まれた事を知る。
デイブとマイルスは必死になりマスターテープを取り返すために行動に出た。

そこからは非現実的な描写が続く。
先ずカーチェイスが続き、銃を乱射するシーンまである!
気がつけばノワール系かアクション系の映画となり、ぶっ飛んだ設定に驚かされてしまう。

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そんな事はありえないだろう!など突っ込む人は想像力が乏しい証拠だ。
そもそも、マイルスに限らず英雄の私生活など知らない。
それに知りたくもない。
何故ならば、英雄像はイメージが先行する。
そのイメージを覆す汚れた事実や、全く英雄像とはかけ離れていたとすると知らない方が身の為だからだ。
それにイメージだけであるなら想像しているだけなので楽しい。
「実はこうなんじゃないかな〜」「実際のところ、すんげえ真面目だったりして〜」などと空想している方が英雄像が余計に膨らむ。
その結果、より英雄として記憶に刻まれると勝手ながら痛感する。

こういった事とは別に、ドン・チードルはこの作品と向き合うに当たり、銃をぶっ放しカーチェイスするマイルスは野生的でドン・チードルが描く帝王像が構築されたのだろう。
結果的に映画として十分に満喫できる作品に仕上がっている。

そもそもドン・チードルはマイルス・デイヴィスの伝記映画を作ったのではない。
単純に空白の5年間を想定し、想像し埋めたに過ぎないのだから。

そして、マイルスが別れた妻であるフランセスを回想するシーンはとても美しい。
当時のレコーディング風景や、演奏を織り交ぜて二人の想い出が交差する部分も鮮やかに、時に荒々しい粒子で表現されている。

そして、とても重要なポイントは劇中マイルスはジャズを演奏しているのではなく、ソーシャル・ミュージックだと言う部分がとても良い♪
即ち、個人的な解釈を言うならば、ソーシャルは隔たりがなく解放されたモンだと思う。
だからJAZZやROCKといったジャンルへの解放と促したかったのだろう。
事実、マイルスはジャンルを超越した音源を世に送り出した。
一方のドン・チードルは解釈を変化球として観客に投げて見せた。
てな具合かな〜☆

ええと、毎回出演している浜村淳先生はたまに休ませないとマンネリ化してしまうので、しばらく休業しますです、はい☆

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