小説 死に至る病

 足の方から、キャラメルにも似た甘いにおいが漂ってきているのに気付いて、私は左足をソファの上に乗せた。電気ストーブで温まった左足のズボンを触ると、思わず手を引っ込めてしまうほどに熱くなっていた。

 おそるおそる部屋着のズボンを脱ぐと、帰宅した時青紫色だった脛の外側は、青っぽい線をもやもやと残しながらも、オレンジ色のような、黄色のような色に変わっていた。私はその箇所に今度は小さい保冷剤を当てる。もうこのセルフケアに慣れたつもりでいたが、今日は少し温めすぎたかもしれない。あまり温めすぎるとそこから肉が腐っていきそうで心配なのだけれど、本当に腐るかどうかは、医者ではないので分からない。

 幸い、温めすぎたと感じたのは杞憂だったようで、保冷剤を除いた肌は周りと同じ色に戻っていた。こんな場所をぶった覚えはない。痛みもない。けれど毎日のように、どこかしらにこういう青あざができる。多分、加齢では片付けられない。痛みが出ないなんておかしい。

 より血行を良くしておくためにも、先にシャワーを浴びる。肌はなるべく清潔にしておくに限る。汚れを残してはいけないが、肌の表面を圧迫しすぎてもいけない。ボディソープを沢山泡立てて腕や腹を撫でる。浴室から出たら保湿液を塗り込み、さっきの脛には更に薬を塗り込んでおく。

 食欲はあまりないが、なにも食べないのもよくない。体に何かを取り入れて、消化して、排泄する。そういうサイクルを回していかないと、生きている感じから遠退いてしまう気がする。私の腰辺りまでしかない冷蔵庫には、切り口が少し黒くなりかけたキャベツと卵くらいしかなかったが、キャベツを大きめのみじん切りにして小鍋で炒め、塩こしょうを振ってしんなりしたところで水を加えた。沸いたらコンソメキューブと半分に折ったパスタを入れ、卵を割り入れる。これに魚肉ソーセージ。もう夜は更けていて、今から買い物をしに行くのは億劫だし、誰か他の家族を気遣う必要もない独り身の夕食なのだから。

 テレビをつけると、午後十時のニュースの冒頭、もうお決まりになった本日の都道府県別新規感染者数が表示されていた。四桁、五桁の数字を律義に並べてはいるが、数字が多すぎて見づらいので、警戒度別で塗り分けられている。東京都はずっと赤いままだ。この数字は当局が新規感染者と把握した人数でしかない。この図を見るたびめぐる思考回路を、また辿っている。自宅療養をしている人、または自覚症状のない人、あるいは分かっていても隠している人は、はたしてこの何倍いるだろうか。毎日の通勤電車の乗客の様子を見ても、オールクリーンな人は二割というと少し厳しい見方かもしれないが、少なくとも六割くらいは、そちら側に片足を突っ込んでいる人ではないかと私は思う。

 翌日は職場を半休して皮膚科に行った。例の皮膚炎でと言うと、顔色の悪い医師は電子カルテのモニタを見たまま私の方を一瞥もせず「じゃあ、いつもの薬を出しておきますから」と言った。

 医師は分かっているのだ。私の肌には皮膚炎なんてないことを。待合室に並んでいる患者の多くも、きっと私と同じ症状だ。昨晩のように青あざが出来た時、ある種の皮膚炎用の薬が効くことはネット上でよく知られていた。

 この奇妙な病気は、老人は罹りにくいらしい。老人には、肉に水っぽさや脂っけがないから、この病原菌-といったものがあれば、だが-の舌には合わないらしい。本当の死が近づいていることと、生きているか死んでいるか分からないままでいるのと、どちらが幸せなんだろうか。この病気がインドのどこかで見付かる前も、私たちは確かに生きているのに、死にかけの目で生きてはいなかっただろうか。それが物理的にもそうなっただけのことではないのか。やれやれ、ついに脳までやられはじめたのだろうか。

 発病して他者に危害を加えるようになれば、しかるべき方法で処分される。それまでは、今まで通りコンビニの店頭に立ち、車を運転し、自動車生産ラインに立つ。テレビでは処分とは言わず、これまで通りの習わしで「死亡」と称している。感染した人が治癒するかも分からない。ただの寛解で、高確率で再発するという説もあり、日和見感染症のように抵抗力の低下によって再燃するという人もいた。米大手製薬会社の技術でも手に余るようだった。そんな風に議論が沸き上がるのは、みんなどこか諦めているからではないか。認めてしまえばいいのに。「おそらく、全国民の八割強は感染している」と。「人類は緩慢な絶滅に向かっている」と。

 職場の最寄り駅の改札を通った時、背後でどさりと何かが落ちる音がした。

「落ちましたよ」

 私に続いて改札を出たらしい男性に、それを差し出す。青っぽい色をした、手首から下の右手だった。

「あ……あ……」

 自慰でも見られたかのように狼狽する彼に、目だけで頷いて、さっき皮膚科で貰った軟膏をひとつ差し出した。

「気を付けて。見付かったらあなたも処分されちゃうよ」

「は、はい。ありがとうございます」

 私は彼の手に触れた右手にアルコールスプレーを振りかけた。血色をよく見せるため、私はこのところもっぱら赤いネイルしか付けない。

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