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読解ことはじめ

 夏休み、朝一番は勉強の時間にして、漢字や算数のドリル、一枚ずつ切り離せるワークなどをやらせている。

 その中に国語のワークもある。どうしてそれを選んだかは忘れてしまったが、教科書に準拠しているものではなくて、小さなお話を読んで、いくつか質問に答えるものだ。

 ここではたと気付いたが、小一の娘は学期末に通知表を貰ってきていない。今時の小学校ってそうなんだろうか。理科や社会を学習し始める三年生になったら貰うのだろうか。通知表がなければのびのび育つのか、これはネオゆとり教育というべきもので、後々弊害を生むのか、なんだかそら恐ろしい感じがする。大体、理科や社会を早期から学ばせないのは、たとえそれが生活科として補完されているとしても、自然科学と歴史・文化という、世界を理解するための基礎を学ばせないということだから、日本人を白痴化させるための何かではないかと思うのだけれど。

 さておき。

 その国語ワークでは、読めば確実に分かるものしか質問されていない。たとえば、「蜘蛛には八つ目がある。ある種の蜘蛛はそのうち二つが大きい。別の種の蜘蛛は八つ目があるが、どれもほとんど見えていない」という話に対して、「くもは( )つの目がある」といった設問がある、といった具合だ。

 この段階なら、おそらく多くの子供が間違わずに答えられるのではないだろうか。どうして、またいつごろから、国語の読解が苦手な層が出来てしまうんだろうか。


 ここからは私論になるが、私は日本語の可塑性の高さと、文学の神聖化が原因なのではないかと考える。

 英語において、主語を抜くとか、語順が変わるとかいうことは基本的にはない。もしかしたら英語非ネイティブ圏では、そのような不完全な英語でも意味が通じるようになっているのかもしれないが、文法がしっかり決まっているのが英語のアイデンティティーである。本論から外れるが、西欧語の持つこういう特質が、科学文明を発展させたと言える。

 対して日本語は、主語がなくても通じるし、語順が変わっても一応文章として成立してしまう。もちろん全く同じ意味にはならないのだが、それでもおおよその文意は伝わってしまうことが多い。

 それが悪いことだと言いたいわけではなく、個性なのだと思う。もともと日本人の世界に対する切り取り方にそういう特質があったから、言語もそのような形になったのだと思う。

 近代化を推し進めるにあたり、日本人は言葉をしっかり教えることをしてこなかったのだと思う。もちろん品詞の種類や活用の仕方などは教えてきたし、読解問題も数多くしてきたと思うが、たとえば文中のある言葉が、何の言い換えになっているかということに対して、文の構造から読解するというようなアプローチはしてきておらず、あくまで内容ベースでの読解を指導してきたのではないだろうか。

 確かに日本語は可塑的な言語だし、それ故に物書き側が分かりにくい書き方をしている場合もあるだろうから、文の構造を紐解くのは骨が折れることだろうが、文法は文法、読解は読解と別個で教えるのではなく、一体として教える必要があったのではないだろうか。

 いくら可塑的といっても日本語も一つの言語であり、言語であるということはパズル性があるものである。パズルは仕組みがあるからパズルとして=言語として成り立つのであるから、その仕組みを教えることは不可能ではないはずだ。それを阻んできたのは、文学のまとう神秘のヴェールを剥ぎ取らないようにしようとする何かがあったからではないかと私は思うわけである。曰く、「読書は自由なものなのに、なぜ設問に対する答えが一意に決まるのか」といった批判である。この批判が発展すると、学校で文学を教える意味はないのでは、といった暴論に至る。

 単語一つ一つの意味と、その語順から導きだされるおおよその意味から、想起するモノは人によって少しずつ異なるだろう。これが「読書は自由なものである」とされる理由である。それは個人のバックグラウンドが異なる以上致し方ないし、日本語のみならず、言語という記号の不完全性のなせる業である。しかしある問われ方に対する解答は、完全一致しないかもしれないが、八、九割方この解答だ、と決まるものである。そのことをごっちゃに考えている人が、世間的にみて頭が良いとされる層にも散見される。このことが、まさしく国語教育の敗退の証左であるが、これはもしかしたら戦後、教育が他国の圧力によって直接的または間接的=自粛的にゆがめられた結果かもしれないなと思う。

 私は生まれてこの方国語のことを苦手だと思ったことはないのだけれど、国語のパズル性にちゃんと気付いたのは結構大きくなってからだった。それまでは読書量に裏打ちされた何かで解いていた。もちろんそれは、言語化されてはいないだけで、国語のパズル性を理解していたから解けていたわけだ。別に学校の成績なんてどうでもいいことではあるけれど、それでも私は子供にこのことをどうやって段階的に、つまづかせずに伝えていけるのだろうかと思う。

 これからは、英語教育までもが文法をいわば軽視し、コミュニケーション主体の指導になると言う。頭が痛い。ゆとり教育の導入前後から、詰め込みは悪だとされてきたが、知識の基盤がなければ思考力や発想力も生まれない。近年の大学入試改革しかり、肝心なことばかりが狙って骨抜きにされている気がしてならない。

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