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ここで会いましょう 第一話

 右腕には大時代な籐で編まれた大きなバスケットのハンドルを、左腕には自家製のサングリアが入った魔法瓶をぶら下げ、私はどこまでも続く青い青い草いきれのする芝生の丘をゆっくり登っていた。重たいバスケットは容赦なく肉に食い込んで、内肘にハンドルの編み目模様の赤い圧迫跡をいくつも作っていたし、芝生の下は砂地だったので、靴の中に砂が絶えず入ってきて、足首あたりに触る葉のチクチクとした刺激と相まって私を少し苛立たせたけれど、それでもこれからのすてきな計画のためには、これくらいの不愉快はどうってこともないと思えるのだから、本当に恋とは不思議なものだと思う。

 私は塗装が白く褪せ、地の金属が赤茶色に錆びた顔を覗かせている、古びたブランコの脇に荷物を置いた。一面の芝生とこの壊れたブランコと、遠くに青くかすむ山々と、広い空しかここにはない。杭とロープからなる、転落防止にはほとんど気休めでしかない柵が、さっき登ってきた坂道以外のぐるりに張り巡らされていて、南の方角からその頼りない柵の下を望むと、足下に一面の市街地が広がる。さすが、登ってきた坂が急なだけある。かつては赤や黄色や青に色づけされ、子供の良い友人になっていたであろうブランコは、座席部分に使用禁止を示すロープが巻かれているが、それも緩んだり風雨で朽ちたりしていて、修繕や再建のサイクルから完全に締め出されているようだ。いや、ブランコだけではない。この場所自体、公園の訪問客からも、あるいは公園の管理者からも忘れされられている場所なのかもしれない。ここは手つかずで残されていたひみつの庭で、現実とおとぎ話との合間にある世界で、わたしたちはたまたまタイミングが合って、幸運にもその空間にするりと入り込めたのだ。車を駆って海の見える道を巡ったり、街で腕を組んで歩いたり、あるいは囲われた夢の世界で音と光のシャワーを浴びるというのも悪くはなかったけれど、ここを知ってからは、それらは過剰で騒がしいことになってしまった。彼はまだその騒がしさが恋しいようなので、そういう逢瀬になることもあるけれど、音楽も娯楽もないここで、彼の息づかいを感じ、風の匂いを感じながら食事をともにし、他愛のない会話をすることは、私の心の毛皮を優しく撫でつけ、中に静かに何かを注ぐようなことになったのだった。

 私は肩に背負っていた筒状のバッグからレジャーシートを取り出し、ブランコの柵の隣に広げる。彼はこれまで待ち合わせ通りに来たことがない。だけどそんなことで腹を立てたりはしない。きっと昨日も遅くまで仕事をしていたのだろう。もしかしたら日付をまたぐ頃までパソコンにかじり付いていて、束の間疲れを癒すために、どこかでビールでも飲んでから帰ったのかもしれない。私はその時間、サンドイッチに挟むハンバーグのソースを煮込んでいた。隣のIHヒーターにはホーローのミルクパンにリンゴのシナモン煮。これを腹に入れたらいかにも元気になりますよと主張してくる肉の香ばしさと、ウスターソースなどが醸し出す酸味、とろとろにとろけるリンゴと砂糖の甘みと、鼻をくすぐるシナモンの刺激が混ざり合った、魅惑的な香りに包まれた部屋で、私は彼に数時間後会えることに期待を膨らませながら眠りについたのだった。

 私はバスケットを広げてお皿を出したり、料理の入った保存容器を並べた。はじめシートの上に直において、そういえば今日はテーブル代わりのボードを持ってきたのだった、と折り畳み式の板を広げる。ナプキンを上に敷くと、本当に古き良き時代の上流階級のピクニックのようになった。

 サンドイッチはまだパンとおかずのままで、銘々好きなように具を挟んで食べる趣向だ。今日は別に記念日でもなんでもないけれど、彼とはたまにしか会えないのだから、無理のない範囲でなるべくスペシャルな演出をしたい。

 ああ、あのいかにもせっかちそうな、というかいつものように遅刻したから、少しでも時間を稼ぐべく、慌てて坂を駆け上がってくる足音。私はそちらに顔を向けるべきか、気付かないふりをして準備をつづけるべきか迷う。口はうれしさでへんな風にゆがんでしまっている。そしてまたその事を指摘されてしまうんだ。「どれだけ僕のこと好きなの」って。


 この記憶がもう五年も前のことだなんて信じられない。あの日の、雲一つない澄んだ青い空の色彩も、草と料理とかすかに彼の汗が混じった香りも、少し目の端に疲れが残る屈託のない笑顔も、今しがた過ぎ去ったことのように鮮明だ。これが私の頭の中にある記憶であったなら、とうに色も香りも深く沈んでしまって、彼の笑いじわが頬にどう陰影をつけていたのかも、あの小さな箱を持ったときに感じた手の汗がどのようだったかも、おぼろげにしか思い出せなくなっていただろう。

 ここは、いつものように閑散としていた。館内はダークブラウンを基調にまとめられており、窓はあるものの、ロの字型の施設の中庭に面しているため、気休めの明かり取りにしかならない。点在する間接照明の効果もあって、日中でも夕暮れのような暗さと侘びしさだった。

「いつも、ありがとうございます」

 私の座る豪奢な閲覧ソファの背後に、音もなく立ったのはこの施設のコンシェルジュだった。私の担当になっているであろう彼は五十代後半から六十代半ばといったところ、白いシャツに黒い蝶ネクタイに黒いパンツ、白い髪はきちんとなでつけられ、口ひげも左右に形よく作られている。上流階級の執事か上等な店のバーテンダーと言っても通る風貌をしている。

「ここにくるのは私のような変わり者だけみたいね」

「決して変わり者というわけでは。しかし、今の社会を生きるには、皆さん時間が足りないのでしょう」

「過ぎ去ったことを、自分から切り離すためだものね」

「世知辛いことですが。でも」

 彼は、一旦言葉を切って

「他のことが手に付かないほどのつらい記憶を、抱え続けていけない人もいらっしゃいます」

 五年前、私は両親に半ば引っ張られるようにしてこの館の門を叩いた。彼らはこのままでは私が死んでしまうと、本人の申請でなくてはと断ろうとする職員の肩を揺さぶって涙ながらに頼み込み、ほとんど放心状態の私にペンを握らせたという。当然、私はその時のことは全く覚えていない。ここの技術で記憶を消したのではなく、私の脳が拒否したのだと思う。

 彼の存在を外部記憶に移したことで、なんとか人として生きていけるようになったと思う。だから両親には今では感謝している。食べ物に味が感じられるようになったし、朝の光を浴びて気持ちよく目覚め、仕事も以前のようにこなせるようになった。一年後、彼らは私の生活が十分安定しただろうと判断し、私をここに連れてきたのだ。この施設の存在は一般常識として知ってはいたが、まさか自分の記憶が貯蔵されているとは思っていなかった。何しろごそっと彼の記憶だけ抜かれているので、その一年間は彼の存在すら無かったことになっていたのだ。

「変な気持ちなのよ」

 膝に広げていた、本の形をした私専用の記憶保存装置を彼に渡すと、サービスで入れてくれた珈琲に口を付けながら言った。

「月一回、この記憶を見に来ているから、私には彼がいたことがわかる。でも、あくまで媒体を通じてなの」

「鮮明な映画を見ているようだと、おっしゃった方もいました」

「わかるわ。これは本当に私の記憶だったのかしらって。自分を壊すほど、大事な人だったはずなのに」

「本当に、よろしいんですね」

 彼は、私がサインした書類の挟まったバインダーをもう一度こちらに差し戻し、再度念押しをした。

「ええ。私はきっと後悔するけれど、でも前に進まなければ」

 私は書類を彼の方に押しやった。彼は先ほど受け取った私の本を、フロントの脇にある暖炉の中にうやうやしく置いた。私はマッチと呼ばれる赤い球体がついた小さな棒をこすりつけて火を現出させ、それを暖炉に投げ入れた。無論本当に火が出ている訳ではなく、データを消すのにただデリートボタンを押すのでは情緒がない、という創設者の考えで作られたものだそうだ。もっとも、マッチで火を起こしたこともないし、実物の火さえろくに見たことの無い私が、この演出によって彼か彼女の思惑通りに心が動かされたかどうかはよくわからなかった。

 老コンシェルジュが言った。

「私は本来あなたの門出を祝うべきなのに、こんなことを言うのは不適切で、職務範囲を越えた行為だと思っています。ですが」

 彼は私の方に手を差し出した。

「あなた様がもういらっしゃらなくなるなんて、寂しくなります。ここのことを忘れてしまっても、どうかお元気で」

 私は彼の細く、骨張った手を握った。

「あなたも」


※エブリスタの別アカウントに載せていた過去作を修正して掲載しました。

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