皮算用

 そろそろ寝ますか?

 いや、まだお風呂これからだから。

 そうなんですね、じゃあまた。

 そっちも仕事頑張って。もうこんな時間だし、なるべく早く寝てね。

 先々週の合コンの相手とのLINEを終えて、私用パソコンを閉じた。デスクの上には会社貸与のパソコンがスリープ状態に入っていた。長く待たされて不貞腐れている彼を起こすと、現れたPowerPointのページは真っ白。ブレーク用のイラストを左下隅に入れてあるだけだ。

 んー、今日のLINEは結構よかったな。早く寝てなんて、気遣う言葉を最後にくれたのも少し距離が近くなってると思う。明日はこっちからLINEするのはやめておこう。顧客訪問のあるしあさっての夜に......あ、でもしあさっては金曜日だ。相手に飲み会の予定が入っているなら返事はその後になるだろうから、ヤキモキするのは嫌だな。顧客訪問は疲れるから癒しが欲しいんだけど、我慢しよう。こっちから連絡するのは早くても土曜の夜。ここでちょっと引けば、多分向こうから二度目のデートの話が出る。よほど下手を打たなければ、来月辺りには恋人同士になっているはず。向こうが優柔不断なら、こっちから付き合おうって言ってもいいんだし。

 なんとなく見通しがたったので一仕事終えたような気持ちになる。全部私の皮算用。でもこれまで知り合った男性のうち、私の見通し通りにいかなかった恋愛はない。今度の彼も射程圏内入りだ。そして私の皮算用の上手さは、今の仕事にも生かされていた。

 経営コンサルタント、とひとくちにいっても幅広い。私は主にマーケティングや販売促進を得意としてい......ようとしている。プライベートで仕事について話さないといけない時は「コンサルタントをしてて」と言うけれど、私の名刺上の肩書きはアソシエイト、つまりコンサルタントの卵だ。入社二年目。早い人はそろそろ昇格するタイミングだった。

 けれど、現実はなかなかうまくいかない。

「相原くん、ちょっと」

「はい」

 今組んでいる緑川さんは普段は温和だけど、この声はさらりとダメ出しするときの、ことさら柔らかさを足した声だった。

「ここね、ちゃんと分析してたらこういうことになんないと思うんだよね」

「は、はい……」

「ほら、ここの論理構成がおかしいじゃん? 確かに前のS社ではこの手法がはまったけど、今回の会社はS社と同じ飲食でも、業態もターゲット層も違うでしょ? ちゃんと考えてこうならいいけど、君、さっき『はい』だけで反論でなかったよね? いや僕に遠慮してるんならそれ無駄だからね? ちゃんと考えてたら、『それは違います。なんでこれを採用したかというと』って出るはずなんだよ。もちろん僕には考えがあるよ。去年ならそれをそのまま形にしてって指示したと思う。でもいつまでも手を動かすだけじゃ嫌だろ? だからヒントは与えないよ。このページからこれと、これとこれ、やり直し! そうだな、明日の昼イチで見せてくれる?」

 ぐうの音も出ないほど、めっためたにやられた。緑川さんのデスク脇ではなく、ミーティングルーム内でやってくれたので、オンタイムでボスに見られなかったことだけが幸いだった。もっとも緑川さん自身も、やっと採用にこぎ着けた新人(私のことだ)に対し、あまりにけちょんけちょんに言っていることを上司に聞かれてしまうとまずいという事情もあるのだろう……自分の温和なイメージを死守するという意味でも。ともかく、私の在宅残業は今日も見事に決まったわけだった。

 こういう時、恋人がいた方がいいのか、いないほうがいいのか、と思う。恋人がいれば、その人にちょっと弱音を吐いて、あるいは全然関係ない話をして、それでまた頑張ろうってパソコンを開けるのだろうか。恋人がいない方が、自分の至らなかった点に一人で向き合い、改善に向けて純粋に、脇目もふらずにパソコンに向かえるようになるんだろうか。

 そもそも、恋人の存在なんかで仕事への向き合い方が左右するなんておかしな話だとは思う。歴代の彼氏は、私にほとんど仕事の愚痴なんて言わなかった。それは私が愚痴を聞かせるに値しない人物だった、という可能性だってあるけれど、彼らの方が職業人として成熟した態度を取っていたのだ、と思う。

 ……どうせ弱いもん。

 いやいや、私がこんなことを考えるのは、今絶賛狙いをつけている相手がいるからだ。こういう時、頼っていいのか頼っていけないのかいまいち分からない、つまり頼らない方がいい、中途半端な関係の相手がいると変に心が弱くなる。私に好意があるなら、ちょっとくらい引き受けてくれてもいいのに、という甘えが顔を出す。

 だけどLINEを送ってしまったが最後、私は恥ずかしくて耐えられなくなってしまうだろう。たとえ相手が、私の心の弱いところを開示されたことに感激して、喜んで支援してくれたり、二人の距離がグッと縮まったとしても。私はどんどん弱くなってしまう。その人に弱い、みっともない自分ばかり見せるようになってしまう。相手の弱いところを引き受けるのは歓迎だけど、自分がそうするのは嫌だった。

 コンコン、コンコン

 聞き間違えかと思った。確かにこの音は隣の部屋 ー大抵週中の夜半に恋人が訪問しにくるようだったー のドアではなく、うちのドアが鳴っているらしい。彼にはまだ地名くらいしか住んでいる場所を教えていなかった。

 ドアについているレンズから外を覗いても何も見えないので、風でドアに物が当たったのだろうと思った。私はどうせ玄関に来たからと、廊下兼キッチンで湯を沸かす。気分転換に温かいスープかコーヒーをいれようと思ったのだ。

 コンコン、コンコン

 また音がした。チェーンを付けたままドアを開けると、そこにはしとどに濡れて毛という毛がぺたんと体に張り付いた一匹の狸がいた。

「夜分にすみません。今晩だけでもいいのです、泊めていただけませんか」

 狸が言葉を話すことも、狸を家にあげることも自然と受け入れてしまっていた私は、なんだかおかしかったんだと思う。そのくせどこか冷静で、泥と雨で汚れた体で部屋にこられるのはごめんだと、お風呂で体を洗ってあげた。石鹸で毛を泡立てると、狸は身をよじってくすぐったそうにしたが、温かいシャワーをかけると気持ち良さそうにチイチイと鳴いた。タオルで体を拭き、ドライヤーで軽く乾かすと、ふわふわの素晴らしい毛皮になった。狸本来の獣くささとシャボンの甘さが混じった湿気のあるにおいは、昔飼っていた犬をシャンプーしたときのそれとよく似ていた。

 狸はあろうことか紅茶を所望したので、冷蔵庫にあったポーションを入れたレモンティーを、使っていなかった小さめのマグカップ(たしか前の前の彼氏にもらったものだ)に入れて出した。マグカップは狸の手にぴったり馴染んだ。この子が一晩と言わずしばらく滞在することは、もう決定事項になったようだった。狸はふうとため息をついて、

「たすかりました。やっと人心地がします」と言った。

「人心地? たぬきなのに」

「まあ細かいことはいいじゃないですか。それとも職業柄、言葉の定義は厳密にしないと気持ち悪いですか?」

「えっ...…」

「一宿一飯の礼です。今日の宿題、私の皮算用を御披露しましょう」


◇ ◇ ◇


 私一人なら今日の午前中までかけても満足に仕上げられなかったであろう資料は、午前2時すぎに緑川さんに送信できていた。

 資料が出来上がるまで付き合ってくれた狸は、さすがに疲れたのか、部屋の隅にあつらえた狸コーナーで毛布と溶け込むように丸まって寝ている。呼吸するたびほわほわと毛が上下していて、いかにも気持ち良さそうだった。

 夜中、私と一緒にチョコレートを食べていたくらいだから、きっと尋常な狸ではないのだろう。いつも食べているパンとハムエッグをもう一セット作り、ラップをかけて折り畳み式の小さいテーブルに置いておいた。「冷蔵庫にコップに入れた牛乳があります。お昼は冷蔵庫の中のものを適当に食べて」というメモも添えて。

 緑川さんの機嫌はすこぶる良かった。

「やればできるじゃん。」

 胸を張って自分の成果だと言えないので複雑な心境だったが、それでもほめられたこと、大幅な直しが発生しなさそうなのは嬉しかった。作っている時からこれはいい資料ではと感じていたけれど、突然現れた毛むくじゃらの言うことだし、とどこかおっかなっびっくりだったのだ。

「ありがとうございます」

「ここなんて特にいいよ。他のところは僕も考えていたことだけど、この指摘があるからぐっと説得力が増してる。従業員アンケートをしっかり分析した結果だね」

「はい」

「資料の見映えをもう少し整えようか。色のトーンやフローチャートの大きさを揃えてみてくれる? 微調整で済むと思うけど」

「はい、すぐやります」

 緑川さんはプロジェクトリーダー格の中でも親切丁寧な方だけど、このコメントは今までで一番ではないだろうか。狸はどうしているだろう。ちゃんと朝ごはんを食べているだろうか。チョコレートを余分に置いておいてあげればよかった。

 逸る気持ちをおさえて家に戻ると、狸はドンピシャのタイミングで蕎麦を茹でていた。

「たぬきそばって、それ心情的に共食いにならないの」

 玄関先ですぐに回れ右をさせられ、コンビニに天かすと刻みネギを買いにいかされた私は狐に、いや狸に文字通り鼻をつままれた。

「だって美味しいんですもん。で、資料はどうでした? 上首尾だったでしょう?」首としっぽをわざわざ揺らして言う。駄洒落好きな狸のようだった。

「うん。ただ、これじゃ上司の指示通り作ってた時とあんまり変わらないんじゃ……」

 そうなのだ。相手が人間か狸かの違いだけで、他人から知恵を借りて作ったという意味では私の実力ではないのだ。他のプロジェクトも作業が滞りがちだったから本当に助かったけれど、ただの急場凌ぎに過ぎないとも感じていた。狸がいなくなれば、また同じことを繰り返してしまうだろう。

「大丈夫ですよ」椀を器用に持っておつゆを飲み干した狸は言った。「私はほんの少し手助けをしただけです。あなたの中にある考えにちゃんと名前を付けてあげればいいんですよ」

 考えに名前を付ける。

 この言葉に化かされたように、私は何かを掴んだようだった。狸は相変わらず家にいて、たまに相談に応じてくれることもあったけれど、ひとことふたことのアドバイスを受けるだけで、どんな資料を作ればいいのか、顧客にとって最適なソリューションは何かが導き出せるようになった。そして今やっている案件のうち、一番重要な、つまり受注金額が大きい顧客のプレゼン日の夜、彼とのデートが決まった。そう、そちらの皮算用の精度も上がっていたのだった。


◇ ◇ ◇


「じゃあプレゼンは成功だったんだ」

「うん。プランが通っただけだから、むしろここからが本番なんだけどね。でも一山越えたかな」

「おめでとう」

 スペインバルのカウンターで何回目かの乾杯をする。前みたく緑川さんのサポート付きのプレゼンだったら、当然成功していただろうけど、これほど泡の白ワインが美味しく感じなかっただろう。

「あの、さ」

「はい?」

「君の仕事の区切りがついたからってわけでもないんだけど、付き合おっか」

「……あ、は、はい」

 はーと深いため息をついて彼がこっちを見た。「よかったぁー」と言った顔はこれまで彼が見せたどんな顔よりくしゃっとしていて、この人はこんな顔をするんだと新鮮だった。きっとこれから、皮算用の及ばないことが起こるんだろうけれど、それもいい。ホッとしたらトイレに行きたくなった、と彼が席を立った背中を、こそばゆい気持ちで見送った。

 何気なく彼が座っていたスツールを見下ろすと、カウンターの物置棚から覗くビジネスバッグにきらりと光るものが付いていた。

「……これ、もしかして」

 この毛には見覚えがあった。狸がうちに来てからというもの、毎日の掃除が欠かせなくなったから。コロコロにびっしりつく、毛先が少し白い、うねりのある毛。

 うちの子の毛が落ちたのかもしれない。自分の洋服にもついていないか確認しながら、軽く彼の鞄をたたいてその毛を払い落とした。


◇ ◇ ◇


 翌朝、私はいつもより早く出社した。ボスの席の近くにある紙資料を取りに無人のブース脇を歩く。

 緑川さんの椅子に、ふわふわとしたものが揺れていた。

「……えっ」

 近付いて良く見ると、メッシュ地の背もたれには狸の毛が数本絡み付いていた。

 私は彼にも緑川さんにも、毛の出所について聞くことができなかった。


この記事が参加している募集

スキしてみて

サポートいただけたら飛んで喜びます。本を買ったり講習に参加したりするのに使わせて頂きます。