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文學界新人賞選評、読書

 今年の文學界新人賞の講評を読んだ。やっぱり作品より講評を読む方が面白いと思う。

 今年の候補作は「穀雨のころ」「悪い音楽」「テッラテッラトファミリアノ」「タイムラプス」「蛸を縊る」の五作。

 毎回思うのだけれど、最終候補になった作品全部を読んでみたい。選考委員がよかった、悪かったと言うことの検証をしたいというような意地悪な目的ではなく、ここがよかった、こういう話だったという作品のあらましを聞いていると、全体はどうなのか気になるではないか。

 さて、選評について。今回は二作受賞だったけれど、二作受賞の意味合いはその年によって違うのだなということを、今更ながら再確認した。

 二作とも大変に出来が良くて受賞となった場合と、どちらも受賞にはやや及ばないものの、出来が拮抗していて、どちらかを推すならもう片方も推さねばならないだろう、さりとて両方を落として今回は受賞なしとするのもやや横暴だ、という場合とあるのだなと思った。その上で、今回特に面白く参考になったのは、長嶋有と東浩紀の選評であった。

 長嶋氏は、他の四人が推さなかった一つを猛烈に推して、それが受賞につながったそうで、その推し方が参考になった。彼が評価したのはその作品の細部の描写で、彼の言葉はどれも良かったのだけれど、特に良かったのはこの一節だった。

そういう近くの狭さ、注意深くなさで我々は生息している

 文章を読んでいて、ああ、こういう感じ、あえて言葉にしてこなかったけれど、言葉にするならまさしくそうだ、と相手に思わせる。

 私は多分、世の中の様子や自分に相対する人たちのことを、細やかに受け取りすぎるのだと思うのだけれど、そしてそのことによって私は常に苦しみ続けているのだけれど、それに言葉が与えられ、私がそれを磨くことによって誰かの共鳴を生むのなら、私は物語を書いていていいし、私は生きていていいのではないか、と思った。

 こういう風に気付きを得ようとすることは、私が自分で自分を何とかしようとする営為、この人は努力しているから支えよう、評価しようと思う存在になりうるかなぁ、と、どこか他者から見た自分の姿をイメージして思うのは甘えだなぁ。

 長嶋氏が、作中の登場人物の葛藤は取り替え可能だし、薄味だが、別に構わないと言っていたのも参考になった。

 もう一つ、東氏の選評。彼の選評はいつも「これってこういうことだよね」と卑近な、ラノベ的な言葉で要約するのに長けていて、読んでいて面白い。そして、長嶋氏が推した作品について、「(自分は全く推せなかったが)評者は本作の可能性をまったく理解できていないのではないかとの疑念が生まれたからである」として、受賞は妨げないとしたのがすごいな、と思う。

 彼がそう判断するだけの何かがこの作品にあったのかもしれないし、あるいは長嶋氏の説得が的を射ていたということなのかもしれないけれど、だとしても、自分が「マンガ的な類型」だと評する作品を否定しないところまで内省できるのは頭が下がる思いだ。私がもし将来何かの選者になったとして、こういう態度をとれるだろうか。

 また、次回の選考委員が様変わりし、多数の女性小説家が登用されたのは、氏の提案によるところが大きいらしく(ジェンダー比の是正の必要を訴えたとのこと)、自分が退任する可能性もある中でこのような提案をする勇気、と思った。やっぱり東浩紀さん、好きだ。

 ところで、惜しくも受賞に至らなかった「テッラテッラトファミリアノ」について、これがセカイ系小説だ、というような評が異口同音にされていた。しかし、この作品は純文学らしからぬ内容(地球がもう一つの地球と衝突する)でも、最終選考までこぎ着けたのだから、一次、二次、三次(あるのか?)選考の人はどこをどう良いと言って最終まであげたのだろうかと気になった。

 そういう作品でも、もっと上手く書けていたら受賞まで至ったのだろうかという疑問はありきたりだと思いつつも思ったし、テーマはずれていたとしても、上に推した人たちのその理由を知りたい。また、それだけの経緯があってもなお(最終候補まで行っても良い、最終的にこの賞が受賞しても良いと判断した多数の目があってもなお)、こんな風に選考委員によって酷評されてしまうあっけなさについて思った。

 ところで、次の選考委員の作品について、女性のものはまあまあ読んではいたのだけれど、長嶋氏も中村氏も、名前は知っていたし一度はトライしたはずだけれど、読んだ記憶がないほど作品を知らなかったので、今さらとは思ったものの読んでみた。

 「私の消滅」ははちゃめちゃに面白くて、一日で読みきってしまった。私は先日、小説講座で読んだ作品について「登場人物の秘密を先送りするのはズルいしダルい」というようなことを書いたけれど、この作品は視点人物の混濁をあえてさせるものの、読者の勘違いをちょうどいい頃合いで正していて(もっとも、読者のレベルによっては最後の方まで察することができなくてもどかしく思うということはあるだろう)、ストレスがなく読めたし、「私」が溶けていって(実際には溶けてはいなくて、主人公は主人公だし、主人公と関わる人々もその人々のままであり、溶けていく印象を読者が持つのは、叙述トリックが貢献している度合いも強いのだけれど)曖昧なのは面白かった。

 もう一つ、長嶋有の「問いのない答え」は2014年に発表されたツイッター小説というべきもので、当時のツイッターがどんなものだったか私は分からないけれど、ツイッターをはじめとするSNSが今より市民権がなかったことを伺わせる、説明的な文章がところどころ入って少し回りくどく感じて読みづらかった。

 私が作中にSNSを取り入れたのを、自分で新しさが(少しは)あると思っていたけれど、もう7年も前にこういう作品があったのだなあ(詠嘆)ということも思った。小説家はこうでなくてはならないのだろうか。社会の様相を取り入れて、作品にする。私はもうツイッターもInstagramもアカウントないなあ。もっとも、勃興する何らかの動きを小説にするベストなタイミングがいつか、というのは分からないし、長嶋氏のツイッターの切り取り方だけがSNSの様相ではないのだけれど。

 2014年に発表されていたら「推し、燃ゆ」は評価されなかったであろう。


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