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なくなりそうな世界のことば

 onddoka(オンデョカ)は、バスク語で「キノコを採りながら」

 OYBON(オイボン)は、サハ語で「湖や川の凍った水面に開けた穴」

 HIRAETH(ヒライス)は、ウェールズ語で「もう帰れない場所に帰りたいと思う気持ち」


 日本人ならただ「穴」で済ますところ、サハ語を話す人は、この穴については、特別な言葉を用意した。私も、何も知らないで誰かに焦がれていた時に、帰れるものなら帰りたいな。でも、やっぱ帰りたくないな、などと思う。

 「なくなりそう」とはあるものの、ピジン語から始まってクレオール語になった言葉も紹介されている。この言葉は老人というよりも赤ちゃんなのだと思う。やっぱり将来は消滅してしまう運命の言葉なのかもしれないが、もし世界がこんなにグローバル化していなかったら、この言葉はもっと成長したかもしれない。植民地支配という前時代のグローバル化があったからこそ、生まれた言葉なのだけれど。


 冒頭の言葉たちについて、日本人は単語を持たないが、言葉を連ねて状態を説明することはできる。言葉を連ねて説明するのと、独自の単語が生まれるのとでは、どういう違いがあるのだろうか。

 この本にある限られた情報からは推測することしかできないが、頻繁にそういう状況が起こるから単語になる場合もあれば、滅多に起きない特別なことだから単語になる場合もあるらしい。別角度からのアプローチではあるが、どちらも「重要だから」単語になるように思う。しかし、言葉が消えてしまったら、その言葉が表していたことを特別に認識する意識、言葉に伴う文化もまた消えてしまうんだろう。

 狩猟生活をしていて、暗い森に魔物が潜んでいると感じたこととか、道行く人への挨拶に、「生命」という意味を持つ言葉で「こんにちは」と言うこととかが、消えていく。


 文法上でも言語には沢山の違いがある。たとえばある言語では過去形が三つあり、遠い過去と近い過去と中くらいの過去とを区別するらしい。また、自分が意図的にした行為と、そうでない行為とで動詞の活用が違う言語もある。

 今でもその言語を使う人たちの環境に、区別するに至った理由が残っているのか、残っていないかは分からない。その言語を習う子供たちが、学校で由来を説明されて知識としては覚えているとしても、その違いを無意識で使っているとしたら、その意味は彼らの中に蓄積するのだろうか。……おそらく、するのだろうな。主語が曖昧でどんな語順でも意味が通ってしまう日本語が、日本人の心を人知れず支配しているように。


 もう少し言葉を洗練させて、読み物として耐えうるようにまとめるべきだと思うが、脳みそのデトックスが目的なので、とりあえずここで放流する。これをネタに何かが生まれそうな気配だけれど、体力がないから無理かな。

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