第10回:「が」のお話
「が」について、ささやかなお話をしよう。まず、自己紹介のテキストを書くとする。
「ぼくは中学3年生ですが、来年4月から高校生になります」
このテキストはすぐ修正をかけることになる。手を加えたあとはこうだ。
「ぼくは中学3年生で、来年4月から高校生になります」
ダムのひび割れみたいに論理一貫性を傷つけるもの
たとえばインタビューでの発言を聴いたり、他のライターのテキストをチェックしたりすると、逆接のはずの 「が」(もしくは 「けど」)は、順接でかまわないテキストへ自然に入ってしまうことがよくある。
さっきの例は「中学3年生ですが」を「中学3年生で」と直している。テキストの前後に「いま中学生であること」を否定する流れは考えない前提だ。後に続くテキストでは「高校になったら友達を作りたいです」みたいに他愛もないテキストが続くのを想定してる。
文章術の本でも、逆接ではない「が」を直すことはよく言われる。しかし「が」は意外なくらいスルーされてしまうこともよくある。商業メディアでも編集部による推敲を通過して載ってしまうことも少なくない。
おそらく「が」と言ってしまうのに違和感を抱かないのは、この言い方が当たり前になりすぎているから。
ささいなことだと思う? 僕はダムのひび割れみたいな問題を孕んでいると思う。とりわけテキストをしっかりと書くときに、前文に対して否定や代案を意味しない逆接を使ってしまうことは、テキストを構成する論理の一貫性を決壊させてしまうきっかけのように感じるからだ。
「が」はどこから来て、自然に居座るようになったんだ?
ナチュラルに前文を否定する「が」はどこから来たんだろう? 僕は単に文章術の話をしたいわけじゃなく、書いたり、喋ったりするなかにナチュラルな否定がデフォルトになってしまっているのではないか? って仮説を立てている。
たとえばビジネスメールから会議などの現場のように、丁寧な言い方が必要になるところでは、逆接に関係しない「が」が入りやすい気がする。これは自分を下げることで、相手に誠意を見せる意味があるから入りやすいのだと思う。
つまり論理の一貫性というより、一時のコミュニケーションを優先する結果から前文の否定が入りやすくなったんじゃないか、と考えている。
なので堅苦しい場所じゃない、カジュアルなテキストやお喋りで「が」が含まれると、「自分を下げること・否定すること」が内面化されているように感じなくもない。(ちょっと今回は時間が無くて、日本語のコミュニケーションにおける歴史でいかなる変遷があって、前提を否定する要素が入ったのかは調査出来ていないけど)。
英語における「が」
英語においてナチュラルに逆接が入るケースがあるのだろうか? 翻訳者であるBCW編集長を通じて、ネイティブの翻訳者であるM Skeelsさんにこうした疑問を投げかけてみた。
M Skeelsさんによれば、英語でも「逆接がカジュアルに入るケースはある」そうだ。英語で「が」を(シンプルに)訳すなら「But」の接続詞になる。
「I like meat, but I like vegetables too」(私は肉が好きですが、野菜も好きです)
こうした言い回しは違和感なく成立するのか。「この2つの文は厳密には関連していないので『好きで』、『好きですし』と同等のものに置き換えることもできます。しかしそうすると、聞き手が推測すべき文脈が制限されてしまいます」M Skeelsさんはそう説明する。
「Butの用法も、つまるところカジュアルな場面に合うか、フォーマルな場面に合うか」なのだとM Skeelsさんは語ってくれた。特別、前段を否定・代案しない「But」も、堅苦しくはないカジュアルな場面では違和感なく使うことはありえるらしい。
とはいえM Skeelsさんがその他に挙げてくれた、逆接の接続詞の事例(「although」、「though」など)も見せてもらったところ、順接でかまわないところに逆接詞をいれてしまう「が」の問題は見られなかった。また、フォーマルな場面においては逆接詞は逆接詞として使用されているのもわかり、日本語における「が」の根深さとはすこし距離があるように見えた。
「が」の問題はカジュアルな場面だけではなく、先のビジネスメール的なフォーマルな場面でも顔を覗かせることである。もちろんすべての場面で論理の一貫性を保つようなテキストや喋りをする必要はない。だけどロジカルに語る必要のあるテキストで「が」は混ざりやすく、直すたびに「なぜ自然に前段を否定・代案する必要があるんだろう」と思うのだ。
追記・「そして」の話 常にけた外れの怒りを抱えながらテキストを書いてきた
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