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金のじょうろ


 恥ずかしいから、わたしは顔を伏せた。鞄を両手に抱えて立っているのも必死。視線は感じるのに顔はどうしてもあげられそうにない。
 朝の誰もいない学校の校門でわたしは、彼に告白をした。


 彼は花島シロくんという男の子で、苗字にあるように花が好きだった。名前はひらがなで“しろ”というのだけれど、クラスのみんなからは犬っぽく扱われていて“シロ”というほうがあっている。そしてわたしも例にもれずカタカナ呼びをしていた(もっとも、呼ぶときにはひらがなもカタカナも変わらないのだけれど)。
 シロくんは花が好きで、環境委員をずっとやっている。今は中学三年生だけれど、わたしが知る限り一年生の後期からずっと変わらず環境委員をすすんでやっている。毎朝誰よりも早く学校にきて花壇に水をやる姿がとても印象的だったのだ。それを初めて見たときに多分わたしは心をとらえられた。

 二年前のことである。秋口に入るすこし前、夏休み明けから半月くらい経った日。
 わたしは入部した吹奏楽部の朝練習に出てみようかとたまたま思って、はやく学校に来てみたことがあった。朝の空気は少しだけ冷たくて、まだマフラーも捲けないくらいの弱くて涼しい風が吹いたりして、わたしは足早に校舎に向かっていた。そのとき、校門の脇に備えられたレンガ造りの花壇で誰かが水をやってしているのが目に入った。一瞬だったけれど、それが誰かはすぐに気がついた。シロくんだった。

 なぜなら、シロくんはクラスで有名な人なのだ。名前が珍しいというのもあったし、男子にも女子にも人気のある、マスコットキャラのような人だったからだ。
「お、おはよう」
 わたしは気がついたらシロくんにあいさつしていた。そのときはそれでもまあ名前とクラスでの姿くらいしかしらなくて、こんな寒い中で大変だなあと思って偉いねというつもりで声をかけた。引っ込み思案で、人とかかわるのが苦手なわたしが声をかけたってことは相当だと思う。ただその時はそれだけが理由で、正直言って全然関わる気なんて無かった。うん、そのときのシロくんには心で謝っておこう。……話がずれてしまった。
 そのあいさつをどう思ったかは分からないけれど、シロくんはわたしの声に一瞬びっくりした顔をして、それから周囲を見回した。曇った空からはまだ起き上がらない太陽のひかりが少しのぞいて、右手に持っていたホースのシャワーから出る水がきらきらと銀色に輝き。彼の驚いて呆けた顔にわたしも戸惑って、しばらく見詰め合ってしまったということがあった。傍から見たら出っ放しのシャワーを持つ男の子と地味そうな女の子が黙って見詰め合うというのはかなり不思議な光景だったに違いない。
 シロくんはややあってあいさつを返してくれたからそのままわたしは音楽室に足を運ぼうと思ったのだけれど、それを今度は彼が引きとめた。おどろくのはもちろんわたしの番。やっと馴染んできたはずのローファーが妙に歩きにくくなったみたいだった。
「藍田さん、マリー……ドって知ってる?」
 しょわしょわという音にまぎれてそう言ったのがわずかに聞き取れた。マリー? それはわたしの聞き慣れない言葉で首をかしげると、「マリーゴールドって花」ともう一度声が返ってきた。初めて聞いたそれは、見たことも聞いたこともないのに太陽のように輝くオレンジ色の花をふと想像させた。この状況のせいもあったのだろうか。
 彼はそれから放水を止めるとわたしを手招きして花壇へ呼んだ。踵を返してシロくんの元へ向かうと、彼はまるで友達を紹介するように、しゃんと背筋を伸ばすものを指差して言った。そして見た瞬間、それが彼の言うマリーゴールドだとすぐに分かった。
「これがそう。綺麗な花でしょ、マリーゴールド。ぼくが育ててるけど、もうあと一ヶ月かそこらで枯れるんだ」
「花島くんが? いつもやってるの?」
「うん、ぼく環境委員だし。植物がめちゃくちゃ好きで、毎日違う表情を見せてくれるから水やりも楽しいんだよね」
「綺麗……。でもどうしてもうすぐ枯れちゃうの?」
「寒さにはそんな強くないんだ。でもまた来年おんなじように咲いてくれる」
 珍しい子だと思った。そして、心底嬉しそうにはにかみながらそう語る彼の顔もまたとても輝いていた。水滴をいくつもいくつもくっつけたオレンジのマリーゴールド。名前も想像も、その花のままでわたしは初対面ながら、この太陽に似たマリーゴールドの花がとても好きになった。
 彼のこともきっとこの瞬間から。
 始業チャイムが鳴るまでわたしはシロくんと花壇を見ていたら、そこではじめて朝練習に行くつもりだったのだと思い出した。
 それまでは意識していなかったのだけれど気にしだすとそれは増幅されるもので、彼はクラスではやはり目立つ存在だった。目立つといっても悪目立ちするのではなく、みんなが同じように彼を好いているのが分かるような……。具体例を挙げると、毎朝花瓶の水を取り替えるとか、その日その日の花の絵を黒板の端に小さく描くだとか、毎日の感想ノートには花壇の花の状態を書いているだとか……。注意していると、そういった花尽くしの生活を彼が送ることでみんながなぜだか豊かな表情をしていたのだ。そこにはもちろんわたしも含まれた。名前がどうの、ということではない。彼はとにかく不思議な人だったのだ。冬でも彼は花に心を奪われていたと思う。教室のうしろで鉢に入ったコチョウランの世話をずっとやっていたのを覚えている。

 わたしが入っていた吹奏楽部は、なんとその冬に部員不足で廃部になってしまった。わたしはクラリネットを担当していたけれどそれは小学校でも一応やっていたからという理由で、わたしのほかにクラリネットを吹く子はいなかったし、わたし以外でいるのはピアノをやっているという二年生とフルートを担当しているはずが姿を見せない幽霊部員の一年生と、あとはテナーサックスを息抜きに吹きに来る受験生の人が一人いるだけ、でまともに成り立っていなかったのは初めからわかっていることだった。わたしはそれでもクラリネットが好きで吹きたいというのが理由で入部したので、こうして廃部になってしまうのはさみしかった。
 二年生になってから、わたしはそれでも朝早くに登校しようと心がけていた。偶然にもまた同じクラスになったシロくんと、お決まりの黄色いじょうろでの水やりの様子をちらりと見てあいさつをするだけの、静かな習慣を楽しもうと思ったから。やはり二年生になっても彼は変わらず花へ愛情を注いでいる。それがわたしをなによりも安心させていて、習慣というよりもいつしか日課になり、それが癖にもなっていた。シロくんはわたしのそんな生活を知っているのか知らないのかわからないけれど、毎日顔をあわせるようになったわたしにも慣れてあいさつを気軽にするような仲にはなっていたと思う。
 そしてとうとう三年目をむかえ、わたしはあるとき、今までずっとシロくんを見ていたとはっきり気づいたのだった。きっかけは、全校集会のあの日。校長先生が彼の毎日の様子に目を留めて、なんと生徒たちの前ですごく褒めたのだ。先生方はとても感心しているみたいだったし、クラスの男子たちも賞賛されるシロくんをからかっていたりしたのだけれど、わたしはそんな彼の喜ばしい功績に急な不安感を覚えたのだった。そしていきなり胸につっかえる想いが生まれた。
 シロくんのあの、静かに花を愛する姿が好きだった。あの朝の時間が、二人だけの物ではなかったのかもしれない、と。


「好きです。――――シロくんの花を見る目が」
 だからわたしは、受験を控えた冬休み前のある朝、校門で彼に告白をしたのだ。「好きです」とだけ伝えるつもりが勢いあまって別のことまで話してしまって、それがきちんと告白に聞こえているかは分からなかった。わたしは震える肩を必死で押さえ、ローファーの先の傷をじっと見つめる。気づけばこの靴ももう三年も履いていたのだ。そんなふうに思うと、シロくんを思うような愛しさと同じくらいの愛着がこの靴にも沸いてくる。
 わたしとシロくんは、相も変わらず朝のあいさつを戸惑うことなくするだけの仲だった。だからただのクラスメートともいってしまえるかもしれない。彼は黙って黄色いウインターコスモス(これも教えてもらった花だ)と似たまぶしいカラーのじょうろで水をやっていたけれどわたしの言葉に一瞬動きを止めて、やがて「そう。うれしいな」とだけ返した。朝日がわたしたちに近づく気配がして、ちらりと盗み見た時計は午前七時半をさしていた。ひゅうっと吹き抜ける風はもう凍えそうなほどに冷たい。否定も肯定もしない淡々とした空気に耐えられなくなって玄関へ向かおうと思ったとき、シロくんはわたしの方に視線を投げてまっすぐな声でこう言った。
「藍田さん、ぼくも、きみの笛の音を聴いていたよ。部活はないかもしれないけど、また、吹いてよ」
 心臓が飛び出そうになった。
 彼はわたしの音を、聴いていたと言う。信じられない気持ちでぱっと顔をあげると、その瞳に嘘は感じられない。まさか、部活がなくても朝練習をしていることを知っていたのだろうか――。
 わたしは嬉しいやら驚いたやらで戸惑っていると、また声がかけられた。
「ぼく、でも、もうすぐ国にかえらなきゃならないんだ」
「へ?」
 その台詞に、わたしは素っ頓狂な声を上げていた。国? 国って言った? さらに混乱するわたしの様子に少し微笑んで、シロくんはさっきまでのわたしのように顔を伏せる。まるで意味が分からない。
「藍田さんなら、たぶん笑わないと思うけど、笑ってもいいよ」
 そう前置きして話し出す。そんな彼は、急に遠い遠い世界に行ってしまった人のような気がした。
「ぼくは派遣された人間なんだ。ルルーディアっていう花の国が、実はこの世界のすぐ近くにある。ただ近くっていっても簡単に行き来できるようなところじゃないんだけど。そこでぼくは生まれて、修行としてこっちがわの世界に来たんだ。ずっと花を育てて、人々にどんな影響を与えるかを調べたり、花の声を聴いて住みやすい環境を作ったり。で、もうすぐ……そう、来年には帰るんだ」
 調べが終わるから、と付け加えてシロくんは鼻をすすった。じょうろを持つ手がどことなく落ち着きがないように見えて、そしてその心情は読めないけれどわたしも冷静ではいられなかった。
 いきなりすぎる、なにもかもが。
 たぶん、修行のためにシロくんは三年間この学校にいたのだろう。だから花たちを大切に育てていたし、日記にも、黒板にも、毎日毎日欠かさず花のことを記録していたのだろう。彼のおかげでわたしたちは穏やかに過ごせていたのだ。それは間違いない、みんなの笑顔はこの人が作っているといっても言い過ぎではない。だけれど、なんとなくこころがスカスカして、体から力が抜けていく気がした。
「まさか、藍田さんがそんなぼくを気に留めるとは思っていなかった。ただの変人って周りからは思われていたし、普通派遣された人間は静かに花を広めて、静かに去っていくものなんだ。だから…………。でも、ぼくも、まさか藍田さんの奏でる音に、元気をもらうことになるなんて、思っていなかったよ」
「え?」
 話が突然わたしに切り替わって、思わず聞き返す。シロくんは顔をさっと上げて、じょうろをぎゅっと握り締め、本当ににっこりと、花のように笑って言った。
「ぼくと花たちは、藍田さんの音に栄養をもらっていたんだ」
 この人の声は、こんなにも透き通っていただろうか。彼のしっかりした想いが、クリアにわたしの耳に届く。それは夏を待つ独特の、抜けるような青空みたいに透明でさわやかだ。
「花を咲かせて喜ぶ人の笑顔は、今までたくさん見てきた。ぼくもその笑顔が嬉しいし大好きなんだけどさ。だれかの行動で自分が笑顔になって、花も綺麗に咲くってこと今までなかったんだよ。藍田さん、ありがとう。ぼくの国、ルルーディアに帰ったら手紙書いていい?」


   ★☆


 春休みが明けた。シロくんはどうやら元気でやっているようで、月に二回くらいの頻度で手紙を交換していたのだけれど、わたしは高校受験のために三回お休みしてしまった。そしたら、それから今までのが嘘みたいにぱったりと返事が来なくなってしまった。わたしは彼の住所しか知らないし(そこはさすが花の国。調べてもどこにもそんな町はなかった。スノードロップ五番トンネル街ムスカリ出口一号、だなんて)、連絡することはもうできなかった。
 思い出せばほぼ毎日見ていた、彼の水やりの姿はけれど、今でもわたしのこころのすぐ思い出せるところにしまってあるから、寂しいけれど悲しくはない。
 そう思ったら少しだけ元気が出た。
 四月初旬。現在、午前七時。春の風が、どこからかクラリネットの音を運んでいる。どうやらそれは朝の音楽のようで、学校から流れているみたいだった。わたしは高校への坂道を、すこし軽くなった足取りで進む。遠くに見える木造の校舎のそばに、花が植えられているのが見て取れる。懐かしいあのレンガ造りの花壇とは違うけれど、また花を見ることができるのはとても嬉しいことだ。
 早すぎる登校。まだ時折冬の名残のように冷たい風が吹く。わたしは早めに家を出るこの癖がいまだに直らないようで、今日は、授業開始の初日だったものだからとびきり張り切ってしまった。
 苦笑しながら学校に入っていく。
 生徒玄関の前の階段に黄色いじょうろがぽつんと置いてあった。大きくも小さくもないそれは持ち主が今そこにいるというように、自然に置かれていた。
 けれど、あれはどこかで見た。誰かの、懐かしいじょうろでは――。
 幻覚かと思い硬いブレザーの袖で両目を擦ってみたけれど、それは変わらず階段に大人しく座っていた。と、自転車小屋のほうからひとりの男の子が現れた。彼はそのままじょうろを掴むと、生徒玄関の脇の花壇へまっすぐ向かって、
 ふと、こちらを振り返った。
 それはまるでわたしが来るのを分かっていたかのような顔で。
「おはよう、藍田さん!」
「えぇえーっ!?」
 いったい、なんなんだこの人は。
 ただただおどろくことしかできずに、胸が高鳴っておろおろしていた。それもしばらくすると、だんだんと嬉しさや喜びがこみ上げてきた。やっと会えたと思ったら今度は恥ずかしくなって反射的にうつむいた。
 うつむいたのだったけれど。
 その視線の先に映るローファーが新品で、制服だってもちろん新品で、鞄だって新しいもので……。
 だからうつむかない自分でいようと思った。ぱっと顔を上げて笑って言う。
「おかえり、シロくん!」
 朝の光を受けて、彼の黄色いじょうろが、きらりと金色に輝いて見えた。

ーThe ENDー

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