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「ツインレイ」という概念に付いて私の思う事


今回は、最近巷で話題の「ツインレイ」に付いて触れてみました。

色々詳しく勉強してみると、ツインレイという概念は、私に取っては正直「さほど美しいものではないな」という印象でしかないかもしれません。

その理由は、今回の記事をお読み頂ければと思いますが、本来「個人的体験であるべき恋愛」を、この様なカテゴリーに分類して「外側から型にハメる必要などあるのかな?」と私は改めて思っています。

何故ならそれをしてしまう事により、本当に大事な何かを逆に見失わせてしまう様に私は思えるからです。

ツインレイに限らず、「誰かが考えた概念」というフィルターを通して自分や誰かを見てしまう事は、「自他共に本当の姿を見ていない」という事にもなり兼ねないと私は思います。

何故こんな概念が世間で流行るのかと言うと、それは人間は「自分の目でものを見る=社会から常識と呼ばれているものから自分が外れる」という事が、実は一番苦手な動物だからなのだと私は思います。

何故ならそうした行為は、多くの方達が無意識にどっぷりと浸かっている「安心出来る集団意識から離れる事」に繋がって行くからなのでしょう。

社会や世間という「大勢の人達と違う意見を持つ」という事に、皆心の奥底では憧れながらも、常に恐怖の方が勝ってしまう弱い人間が殆どのこの世の中で、

それを貫ける勇気を持った人間は、極々僅かにしかいない理由はそこにあります。

又この世では、多くの方達が「本当はしたくても出来ない何かしらのしがらみ」というものを自分の中に抱えている事が多いので、

もしかしたら「そういう自分を正当化する為の概念を、新たな集団意識として定着させたい」という思いが無意識に働き、

こうした「一理あっても真理ではない新しい概念」を支持する人間が、常に時代を超えて生み出され続けて行くという事なのかもしれないなぁと、個人的には思っています。

皆どこかに「自分が安心出来るルール」を見付ける事で慰めをもらい、希望をもらい、自分を正当化し、自分を美化して安心したいのでしょうという事を思います。

でも何かの概念に縛られたり、誰かが作ったルールや他者が体験したストーリーに従っている限り、「自由意思で本当の自分を生きる=自分で自分の答えを出す」という事からは、どんどん離れて行きます。

今回はそんな事をシビアに考えながら、「自分の目で見た見解」を怖れる事無く「自分の言葉」で書かせて頂いた私です。


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