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【月雲の皇子④】言葉で語らない、引き算の美学/言葉の外側の世界とつながる(演出)

美しいもの、世界の不思議、深い悲しみ、誰かを愛しいと感じる想い・・・

そんなものに出会う度に、私は言葉の不完全さを認めずにはいられない。
言葉は人間が生み出した有限のツールであり、この世には言葉では言い表せないものの方が遥かに多い。言葉の外側に遥かな世界が広がっていると言ってもいい。
そんな遥かな世界と繋がるために、直接的な言葉の使用を封印した作品があらゆる芸術の世界に存在する。その中でも、ことに大衆演劇の世界についていえば、この作品ほど「言葉」というものを丁寧に繊細に扱っている作品はそうそうないと私は思っている。

『月雲の皇子』連載もこれにて最終回。
第2回第3回とシナリオの素晴らしさについて語ってきたが、今回は演出、「えも言えぬ」美しさのうえくみ*ワールドについて語っていきたい。

*:上田久美子(うえくみ):私が尊敬して止まないこの物語の脚本家兼演出家
  詳しくは第1回の記事をご覧ください。

さて、私は先ほど、「この作品ほど『言葉』というものを丁寧に繊細に扱っている作品はそうそうない」と述べた。
それもそのはず、この作品の裏テーマは「言葉の力」なのだから。

「弟よ、問うべきことは刃で問え。私はもう、言葉では語らぬ!」

主人公・木梨軽皇子が弟・穴穂皇子とやり合う時に叫ぶセリフ。

「この世界には2種類の人間がいる。
 歌を詠む者と、言葉を弄する者。」

この作品の裏テーマを支えるキーフレーズである博徳のセリフ。

「歌はいい。歌でしか言えぬ想いがある」

木梨軽皇子が最期に穴穂皇子に伝えるセリフ。

記録歴史物語も作為的に切り取られた創作であって、事実ではない。
言葉でこの世界(=自然)に影響を与えようという意思が存在する限り、言葉でありのままの姿をそのまま写し取ることは決してできないことをこの作品は示す。
そして、自然を支配しようとする言葉が真実を欺き続ける一方で、静寂の中で舞う花弁や、そんな自然に身を委ねて詠んだ詩歌は嘘をつかないことをこの作品は物語っている。

そんな言葉の外側の世界の象徴的な存在として、ヒロイン・衣通姫(ソトオリヒメ)が存在する。

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衣通姫(咲妃みゆ)は木梨軽皇子(珠城りょう)・穴穂皇子(鳳月杏)の妹にして奈良の三輪山で巫(かんなぎ)を勤めている。
巫とは言わば神の妻であり、たとえ兄弟であっても男性と言葉を交わすことは許されない。

この初期設定により、ヒロイン衣通姫は、幕が上がってから1時間、登場してから40分間、一言も言葉を発さない。

一言も言葉を発さないにも関わらず、木梨軽皇子にも穴穂皇子にも想いを寄せられ、それに対する自身の心の動きを静かに見せる。

そのサインはじっと見つめる眼差しであったり、伏し目がちな横顔であったり、白く輝くうなじであったり、時には彼女自身を離れ、頭上を舞う花弁であったりする。
言葉という表現手法を完全に奪われているからこそ、全ての仕草、彼女の周りで起こる全ての事象に神が宿る。

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言葉にできない想い、言葉にしてはならない想いがある。
その全てを受け止める聖なる存在としての衣通姫。

見ているこちら側としては、衣通姫が登場するだけで緊張感が高まり、花が舞うだけでハラハラする1時間を過ごす羽目になる。
無駄を省き、徹底的に引き算された演出の中では、花びら1枚1枚がその意味の重さを増すのだ。

しかし、そんな静寂の中で張り詰めた緊張の糸は、開始1時間後、衣通姫が禁を破り木梨軽皇子と言葉を交わすことによってぷつりと切れる。

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ギリギリまで言葉の力を封印するからこそ、ようやく発した言葉の威力は凄まじい。
物語の緊張も、役者の緊張も、観客の緊張も…劇場内の全ての緊張の糸を切って、物理的に心拍数を上げ、あれよあれよと言う間に少女漫画的「静の世界」は少年漫画的「動の世界」に吸い込まれていく。
私たち観客も、木梨軽皇子・穴穂皇子・衣通姫とともに、言葉が起こした運命の濁流に呑み込まれ、逃れるすべを知らない。

初めて見たとき、魔法にでもかかっているのではないかと思った。
こんなにも作品に引き込まれることがあるのだろうか?
こんなにも作品に観客が飲み込まれることがあるのだろうか…?と。

そもそも、私がさっきから連発している「言葉の外側」ってなんだろう。
子供のころは、世界には言葉の内側も外側もなかったんじゃないかと思う。
五感を駆使して世界と繋がっていたあの頃は、言葉は人とつながるための手段のひとつに過ぎなかった。
だから「ごめんね」という代わりに一緒に泥だらけになって遊ぶことでも、想いは自然と伝えることができた。
しかし、私たちは言葉による教育を受けて大人になった。そして、言葉でこの世界を理解しようと努める内に、言葉でしか世界を捉えられなくなってしまったのではないだろうか?そして言葉で理解できない部分は知覚の外側に置いてけぼりにしているのではないだろうか?
子供の頃、この世界はあるがままの姿で私たちの目にうつっていたのに…
だからこそ、私たちは言葉の外側の遥かな世界と繋がったときに、「ハッ」と息を飲み、心拍数が上がり、エモーショナルな心地に浸る。
そのきっかけは一枚の「エモい」写真かもしれないし、落書きか持ちれないし、詩歌かもしれないし、美術作品かもしれないし、この作品のように1時間じっくりじっくり温めた舞台にさざめく「笹百合が咲いていた」という一言なのかもしれない。

(恋愛に関していえば、大人になってもなお言葉の外側の世界で繰り広げられるので面白い。)

言葉の外側と繋がりたい、というのは潜在であれ顕在であれ、大人に普遍的に備わる欲求のひとつなのだと私は思っている。
例えばパウル・クレーの絵なんかを見ていると、「ああ、この人も子供の頃の透き通った目でもう一度、この世界を捉え直そうと足掻いているのだな」と感じる。

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そして、私が敬愛する上田久美子もやはり、言葉の外側の世界の存在に気づいており、繋がりたいという欲求が顕在化しており、その欲求に従って作品を作っているのだな、と感じる。

・ありのままの世界を心で受け止め、詩歌を通じて表現する木梨軽皇子
・この世界を言葉で理解し、言葉の力でコントロールしようとする穴穂皇子
・言葉の外側の遥かな世界を象徴する聖なる存在、衣通姫
・この三者を取り巻く、言葉以上に意味を持つ情景描写の数々…

直接的な言葉では繋がれない、観念的な世界につながるためのストーリーテーリングを、演出を、上田先生は知っている。
だから何度でも彼女の作品が見たくなる。

子供の頃、五感で繋がっていた「本当の世界」と繋がるために…。

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(おまけ)
以前、言葉の有限性や「エモい」という感情が生じるプロセス、上田久美子流文学的ストーリーテーリングについてまとめた論文を、日本広告業協会の第49回懸賞論文(新人の部)に応募しました。
残念ながら賞は逃しましたが、noteに日々投稿している記事と比較するとより推敲を重ねた文章です。ご興味のある方はぜひこちらものぞいてみてください!🌸


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