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「joker」にはあって、「パラサイト」にはないもの

ここ数ヶ月の間に貧困と暴力を描いた2本の映画が大ヒットした。

ひとつは「joker」
貧しくも正しく生きる日雇いピエロのアーサーが悪のカリスマジョーカーになるまでの物語。
ガリガリに痩せたホアキン・フェニックスの鬼気迫る演技に世界中が湧き上がった。

そして、もうひとつは「パラサイト」
半地下に住む全員失業中の家族が、IT企業の社長の家に家庭教師として紛れ込み…(監督の強い要望によりネタバレはここまで)
コメディとスリラーという相反する要素が折り混ざった作品で、パルム・ドール賞を受賞したことで一気に話題になった。

どちらも“貧困と暴力”を描いた作品であり、アカデミー賞有力候補と謳われることから、何かと比べられがちな2作品だが、
「joker」にはめちゃくちゃ感動して、すごいもの観ちゃった!と興奮した私が、「パラサイト」では茫然自失として何も言葉が浮かばなかった。

「パラサイト」を早くも2020年No.1に違いないと語る声も多い中で、
どうして私の心は空っぽになってしまったのだろう…と、自分の感性を疑ってっさえいたのだが…
なぜだろうと考えているうちに「joker」には描かれているのに、「パラサイト」には描かれていないものが見えてきて納得した。

貧しい者が悪に手を染めるまでの経緯や葛藤、そして信念

ジョーカーことアーサーは初めから悪人だったわけではない。
社会の大多数より誠実で正しく生きているのだが、貧しさと障害のために、その正しさがむしろ弱さを強調してしまう、そんな人物だ。

社会的階層が上の人たちの心ない言動により臨界点に達したアーサーは、自分を守るため、強くなるために正しさを捨てて犯罪に手を染める。そして、転がる石のように悪事を重ね、「格差」という社会悪と戦う”悪のカリスマ”として貧しきもののヒーローになる。
その過程やこまやかな心理描写は、観る者に「自分もジョーカーになり得るのだ」と納得させるのに十分だ。

一方、「パラサイト」の半地下の家族が何かに我慢したり葛藤したりするシーンは一切描かれない。
詐欺という軽犯罪に手を染める過程でも、終盤のもっと重い罪に手を染める過程でも。
あるのは恐怖と焦燥と直感的な嫌悪だけだ。

さらに言えば、彼らが闘っているのは社会悪ではなく、目先の実利をいかにして得るかに終始している。
ジョーカーが「格差」という社会悪に意思を持って立ち向かい、社会変革のために金持ちを象徴的に殺すのに対し、「パラサイト」の貧困層は自分たちを寄生させてくれるパク社長を最後までリスペクトしている。「パラサイト」の作中の人物はみんな格差を受け入れて生きている。

これが、「パラサイト」が「joker」に対し、遥かに恐ろしく、観るものを茫然自失とさせる所以だ。

すなわち、パラサイトが描いたのは、資本主義のルールの中で、社会に疑問を持たず小賢しく生きる普通の人が、何の信念も決意もないまま罪人になっていく様だからだ。
悪くなろうと思ってやっているのではない。資本主義的競争社会を生き抜くためのちょっとくらいいいよね、の延長に永遠の闇がある。自分も足元を掬われそうでゾッとする。

そして、この作品を通してハッとさせられる。
意思が人間に悪事を働かせるのではない。
社会システムが悪事を働かせるのだ。
と。

さらに、彼らが盲目的に信じる資本主義こそ、最大の悪なのに、作中の誰も気づかない愚かさに心が空っぽになる。

ここ数ヶ月の間に貧困と暴力を描いた2本の映画が大ヒットした。

ひとつの主役は、自分なりの正義と信念を掲げ、社会悪と戦う悪のカリスマとなった。

一方もうひとつの主役は、既成の社会のルールに従い、小賢しく生き、何の信念もないまま罪人になった。

形は違えど、観賞後に襲われる感覚も違えど、資本主義という平等な機会を与えるから結果の不平等に文句をいうなと言いつつ、機会も金持ちに傾斜して与える社会システムに疑問を投げかける映画ばかりがヒットすることに、世の中はもっと警戒し、本気で対策を考えるべきだろう。

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