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【看取りケア】25年前のオーストラリア緩和ケア研修から得られること

介護、福祉業界で初めての仕事、特別養護老人ホームで5年間勤務して、入居者との関わりの中から、人の人生の最後の迎え方に自分なりの疑問を持ち、その後の仕事における取り組みを考えることが必要と思った。
夜勤の仕事や施設での様々なストレスやプレッシャーがあり、限界を感じていたことと、この仕事でのスキルアップを考えたこともあり、次の仕事として新たに立ち上げる特別擁護老人ホームで生活相談員(当時は生活指導員)をすることになっていた。退職から次の職場の入職まで1ヶ月のブランクに、どうしても行きたいと思っていたオーストリアのメルボルンにある「カリタスクリスティーホスピス」での緩和ケア研修に参加した。もう25年も前のことだが、今でもその経験により考えることが多い。その時の学びをお伝えしたいと思う。


特別養護老人ホームでの看取り

自分が入職した頃(1993年)は、「新ゴールドプラン(懐かしい)」と言われる国の施策で、施設も増床が計画され新設の特養(特別養護老人ホーム)が増えてきた時期だった。
国家資格である介護福祉士もまだ少なかった時代で、特養の現場は介護福祉士資格を持つ若い職員が数名と、以前から介護の仕事をしてきていた「寮母さん」と言われる年配の職員が多数、ほぼ女性の職場だった。
そんな中で当時30歳だった自分に面接時に「本当にこの仕事でいいの?」と確認されるほど働き盛りの男性がほとんどいない状況だった。
介護に対する想いや気持ちをそれほど持たず、高齢化社会に向けて単なる継続性の高い仕事として介護職を選択しため、ほぼ素人だった自分はゼロからのスタートで、知識やスキル、介護技術を学ぶため、現場での経験をメモのような日記にしていたので、そのとき感じたことなどは今でも覚えていることが多い。

介護の仕事ということで、高齢である入居者がお亡くなりになることは意識はしていたものの現実的な感覚はなかったように思う。初めて自分が関わる入居者の方が亡くなったとき、昨日まで、そこにいた方、それこそ生きていた方が翌日はいない、そして、その日から何事もなかったようにホームの生活は続いていく、今とは違い当時はお見送りの行事もなく(今やっている施設は多いかどうかわからないが)、他の入居者も亡くなったのか入院したのか聞かなければわからない。。。というような状況だった。
その後、入居者の何人かが亡くなられたが、亡くなった方のお知らせをだれも他の入居者へすることはなかった。ホームで亡くなっていくことを自覚され精神的にダメージを受ける方がでることへの配慮であったかと思うが、自分には大きな違和感あった。にも関わらず、日々過酷な日常業務に追われ考えることをやめてしまう。というよりもそのことを疑問に持ちしっかり考えることに、受け止めることができない怖れのような感覚を持っていたのかもしれない。考えることができたにせよそのことにより大きなジレンマを持つことで、いずれにしても自分が内面から壊れてしまうことへの自己防衛だったのかと思う。
当時思ったことを一言でいうと「ひとの人生の最後が、こういう終わり方でいいのか」ということだったと思う。
その後、介護スタッフとしての仕事の中で得た経験や多くの亡くなっていった方との関わりから、人が人生の最後をどのように迎えるか、そして、自分はどのようにそのことに関わることができるのか、を考えるようになった。

ホスピス研修へ

冒頭に紹介したオーストラリアの「カリタス・クリスティー・ホスピス」の研修は、ホスピスの国際教育部門リエゾンオフィサーのナースが募集から案内まで担当するもので、5日間という短い期間だったが、講義だけでなく病棟見学、プログラムの参加、訪問看護の同行、ナーシングホームの実習などとても充実した内容だった。自分が参加した前年には、いまや緩和ケア分野で有名な医師の小澤竹俊先生も参加していて、先生が書かれた雑誌のコラムを読んで参加を決めた記憶がある。

最初に行われた病棟見学で病室を案内された。3人部屋が多く個室は患者の希望や必要性に応じて使われる。同室者への考え方として、自然に亡くなることを隠す必要はない、その影響として良い点では、亡くなっていく患者さんにたいするケアや配慮をみて不安は和らぎ安心する方が多いということだった。もちろん他人でも人を見送るのはイヤだという方もいて、希望にそった対応をする。
様々な患者さんの話しを聞くが、もっとも記憶に残るエピソードとして、がん末期で予後がそれほどない母親である患者さんの話しがあった。本人への治療とともに行われる緩和ケアと、まだ小さい子どもに対するアプローチの話だ。子どもには、お母さんの病気のこと、余命について隠すことはなく、あくまでも子ども自身の選択により伝えられることが決められる。その上で、お母さんのケアをナースと一緒にやりたいかどうかを聞く。やることに決めた彼は、入浴ができない母の身体の清拭をすることとなり、お母さんの身体がだんだんと痩せ細っていく過程をみて、関わっている職員からのサポートも受けながら、お母さんが少しづつ「死」に向かっていくことを感じていく。天国に向かうお母さんが棺(ひつぎ)に入ることを知り、その棺を作る手伝いをすることに決める。お母さんとの残された最後の時間を、十分に一緒に過ごす。そして最後の日を迎えたとき、葬儀で、お母さんが入っている棺、自分が描いた絵が一面に入っている棺をさし「お母さんが天国に行くためにぼくが作ったんだよ!」と周りの人に誇らしげに伝えたという。
小さい子どもであってもひとりの人として扱われ、母親とどのようにお別れをするか、そのことをどのように受け入れるか、そしてその後の支援までが考えられ、用意されていて、本人へのケアだけでなく残された人たちの生き方までに影響をあたえる。それまで考えもしなかった「死」との関わりにふれて、心を揺さぶられた思いがした。

ビリーブメントサポート

カリタス・クリスティー・ホスピスでは、患者さんが亡くなったあと、家族や友人にたいして、ビリーブメントサポートという最大で7年間の支援が提供されていた。
ホスピスでの看取りの際、亡くなられた直後にどのようなお悔やみの言葉がけをして、落ち着くための個室に案内し、お茶を出すタイミングなど細やかな対応が決められている。対応はビリーブメントコーディネーター、ソーシャルワーカー、パストラルケアワーカー(パストラルケアとは、患者、家族、スタッフのためのスピリチュアルな、精神的なサポートのことを意味する)が行なう。インフォメーションガイドにより、大切な人を失ったことによる悲嘆を理解するため、また今後どのようなことが自分に起こるか、そしてその時に自分ができること、どのような支援を受けることができるのか、などが説明される。さらには子供の悲嘆への取り組みで、子どもたちが悲嘆に対応していけるよう助けるための具体的で明確なアドバイスも含まれていた。
継続した支援も行われ、短期もしくは長期にわたるカウンセリングやサポートの提供、2ヶ月後の遺族のためのサポートクラブへの案内(6〜8週間のサポートグループコースもある)や、命日カード、慰霊祭、さらに悲嘆を体験している子供たちへのサポート(特に事故で家族を失い、その現場にいた子どもなどは特別なサポートがある)など、病的悲嘆に陥らないためのありとあらゆる取り組みが用意されていた。

自分の仕事での取り組みを考える

当時、まだ介護保険制度も始まっていない日本で、ホスピスケアがどのくらい普及していたかわからないが、高齢者の支援でグリーフケアなどの取り組みをするところはほとんどなかったかと思う。オーストラリアでは1970年代からチームによる在宅緩和ケアがが急速に発展したという。課税収入の1.5%の国民健康保険制度のメディケアで自己負担はなし。予算的なところはわからないが、国民に必要な事業として扱われており手厚い人員体制も取られていたと思う。一方で音楽療法が保険適用にならなくなるなど制度の変更もあって予算が削られることもあるといっていた。
研修の中で、死に向かう人とその家族への支援が、やるべきこととして当たり前のようにあることの意識の違いを感じ、研修受講後に転職する新設の特別養護老人ホームで、得た学びを伝えていくことやグリーフケアの取り組みを実施していきたいと強く思った。
その後の自分の仕事の中で実践することできたかというと決して満足のいく結果にはなっていないかもしれないが、意識の変化は確実にあったのと、その後の新設特養での5年間での経験も含めて、事業の立ち上げや経営、理念に大きな影響を与えている。

今回の記事を書くにあたって、カリタスでの研修資料や記録を読み返したところ、その内容は今でも決して古くないし、考え方や意識の面では、まだ今の日本の状況が25年前のオーストラリアに至っていないのではないかとも思える(当時でも日本はこの分野で25年くらい遅れているといわれていた)。
このほかの研修内容や学びについて、例えば医師の立ち位置や看護師のこと、パストラルケアワーカーやソーシャルワーカーの役割、清掃係も含めたチーム支援、ボランティアスタッフの育成などの話があり、第2弾として後日noteにして紹介したい。






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