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3番レーンのリツ(短編小説 過去作品と同内容)

ツンと鼻にくる塩素の匂いに、少し泣きそうになってしまう。涙が出ないように空を見上げる。満月が近く見える夜だ。僕は持ってきた花束を握りしめた。

真夜中のプールはシンとしていて、時が止まったように感じる。ただ、自分の心臓の音だけが、止まらない時を表していた。

僕はフェンスにもたれかかった。忍び込むためにあるような、網目の荒いフェンスは昔から変わっていない。10年前と全く同じだ。違うのは、彼女がここにいない事くらいだろう。

彼女、リツは中学の同級生だった。泳ぐのが早くて、水泳部のエースだった。運動の出来ない自分にとって、彼女は別世界の人間だった。光があれば影がある。そういう、よくある言葉で自分を慰めていた。

ある夏の日、水泳のテストがあった。25mのタイムを測るという簡単なものだ。僕は、泳ぎきれなかった。当然テストは落第。クラスメイトにも散々馬鹿にされた。けれど、別に悔しくなかった。自分のまいた種だから、しょうがない事だ。練習も全くしてなかった訳だし、当然だ。こういう思考だった。

「典型的なセルフ・ハンディキャップだね。」リツはそう言った。

体育教師は、出来ない自分を見かねて、リツにコーチングを頼んだのだ。リツは、泳ぎを教える前に、何故こんなに馬鹿にされているのに、悔しそうにしないのか聞き、僕の答えを聞いて、苦笑しながらそう言ったのだ。

当時の僕には、セルフ・ハンディキャップが何なのかは分からなかった。けれども、リツがどうやら自分に自信をつけさせようとしているというのは分かった。とにかく彼女は、やたらめったら褒めるのだ。細かな仕草一つ一つを、異様なまでに褒める。正直、違和感があった。誰でもできるような事を褒められると、ああ自分にはそこくらいしか褒めるところがないのだな、という気持ちになってくるからだ。僕は、段々悲しくなってきて、その悲しさの原因を彼女に求めるようになった。

「別に無理して教えなくていいよ。泳げなくても、困りはしないから。」僕はリツにそういった。

「いや、ダメだよ。このままだと。」

「このままだと?」

「自分の中のイメージに、溺れたままだよ?」

「え?」

「要するに、あなたは変わりたくないの。変わらないための努力を全力でしているの。それが、セルフ・ハンディキャップ。でも、それじゃあいつか溺れちゃうから。泳げるようにならないと。」

溺れ死んでも、別にいいけどなあ。この言葉を喉奥に沈めたままにしておくのは大変だった。リツの言っている事は正しい。けれど、誰かの期待に応えたり、やるべき事をやったりするのが、嫌だったのだ。泳げと言われて泳げるようになっても、そこには意思がないんじゃないかと思っていた。イルカショーで指示を待つイルカと同じだ。

けれど、リツの目を見る限り、喧嘩をしても引いてはくれないだろう。そう思い、僕は練習をした。結果として、なんとか25m泳げるようになった。教師はものすごく褒めてくれた。多分、これをきっかけに変わってほしいのだろうな、と思った。そして、無気力な少年を変えた教師になりたいのだな、と思った。

リツと最後に話したのは、25m泳いだ日の夕方だった。体育の授業で使った水泳帽を、プールサイドに忘れて、取りに行かせてもらった。僕はその時、初めてリツの泳ぎを間近で見た。3番レーンで水を切り裂いているような動きは、侍のように見えた。かっけえ、という言葉が口をつく。中学生にとって、最大の賛美の言葉だ。

リツは泳ぎ終わるの、水面から顔を出し、こちらを見た。「早いでしょ?」というので、「うん。」と答えた。胸がいっぱいになって、これ以上は何も言えなかった。

「25m、これくらい早くなるといいね。」そう言うと、彼女はまた水中へと消えていった。僕は、まるで幻を見ているかのような感覚に包まれた。瞬きをすると、もうその場所にはいない。もっと前へ、前へと進んでいる。すげえなあ、としか言えなかった。

中学を卒業し、高校に入った。リツは違う学校だった。なんとなく水泳部に入ると、鬼のように練習させられた。どうやら、水泳の強豪部だったらしい。不思議と、やめたいとは思わなかった。辛くても、水泳を辞める自分がイメージできなかった。

水泳選手にはならなかったが、今は高校で水泳部の顧問をしている。水泳部の顧問になった時、自分のイメージを変えてくれたリツに挨拶しようと思った。そうしたら、死んでいた事が分かった。それで、彼女のいた中学のルールで、自分なりに弔おうと思った。

僕はプールに花束を投げた。しかし、このままでは翌日怪しまれる。当然、回収する必要がある。僕は、リツが泳いでいた3番レーンの飛び込み台に立った。そして、リツが教えてくれた通りに飛び込んだ。3番レーンを泳いでいると、リツと話しているような気持ちになった。僕は、ようやく「ありがとう」とリツに言う事が出来た。

濡れた花束を持って、フェンスを登る。一番上まで来ると、それなりに高い。月がよく見える。でも今は、月を見る必要はない。全身ずぶ濡れだから、涙の一つや二つ目立ちはしないからだ。僕は泣きながらフェンスを降りて、静かに歩いていった。

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