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牡丹社事件 1871~74年

<牡丹社事件を機に明治政府は琉球の併合への足がかりにする>

1871年(明治4年)首里往府から人頭税を課されていた宮古島民は那覇へ税を納めに行った帰りに嵐に遭い船が漂流し台湾南部の屏東県の東海岸、満州郷の八瑶湾に漂着した。(沖縄島民も居た)。
琉球では台湾の原住民を首狩り族として恐れていたらしい。
当時、東海岸は清の統治の及んでいない、化外の地とされ、そこに住む原住民は清に従わない化外の民とされていた。
推測するに当時の琉球人達は既に交流のあった漢人達に対しては恐れを感じなかったが、自分達とは外見の異なる台湾の原住民達に対しては、言葉が通じないこと、文化・習慣の違いなどから、理解できない者たちとして恐れを感じていたのだと思う。
69名が乗船していた。上陸時に3名が溺死したとされている。
66名は、山を彷徨いながら、パイワン族のクスクス社にたどり着いた。
漂流民たちは予想外にも原住民から飲食を与えられた。
しかし言葉が分からなかった為、猜疑心は無くならなかったようだ。クスクス社の人達は急遽66名もの客を飲み食いさせる為に食料が必要になった為、「狩りに行くから、此処に居てくれ」と伝えたらしいが、言葉が通じず、伝わらなかった。そこへ、幾名かのパイワン族の男たちがやって来て、琉球藩民らの所持品を強奪したらしい。
恐くなった琉球藩民らは、留まっていた家から逃げ出した。それに気づいたクスクス社の村人は恐らく、不信に思ったことだろう。
当時、台湾の原住民は集落がひとつの共同体として独立した集まりであった。
外部の人間に対しては警戒心を持っていて、集落間の争いも少なくなかったようだ。

平和行進で私達がお世話になった村には、村の祭りで、子供を担いで逃げる競技があると聞いた。それは、頻繁にあった敵襲に備え、一番大切な子供を逃がすという経験からきているらしい。
又、私達がパイワン族の集落にお世話になった時、入村の儀式を執り行ってくれた。その儀式の内容というのが、原住民達の歴史を物語っていた。村に入ってくる部外者にはまずトラップ(おそらくシャーマニックな)を仕掛ける。そのトラップを解く儀式というのが、入村の儀式として今も残っていたのだ。
これらの事から推測すると、66名もの怪しいよそ者を村に入れたのに、突如逃げ出したということは、スパイだったのか?この集落の場所を外部に知らされるのでは?と思われた可能性が高い。

もう一つの理由、逃げ出した琉球藩民たちはなんとか漢人の家に逃げ込んだ。
当時、漢人と原住民の間では、漢人の生産物などと原住民が採る山の幸などとの物々交換がされていた。中には人と物の交換もあったという。(漂着した外人や漢人を原住民が保護し、物と交換したということだろうか?)
この時も、クスクス社の人達は自分達が世話した琉球藩民達との物々交換を要求したという。しかし、急なことで、漢人は持ち合わせが無かったという。

判然としないことが多いが、詳細な記録が残っていないため、いくつかの証言や状況証拠などからこの様な答えが導き出されている。

屏東県牡丹郷では今年5月22日が牡丹社事件149周年となった。この日は、当時の牡丹社の頭目父子が日本軍との戦闘によって殺害された日とされている。
牡丹郷周辺には、牡丹社事件関連の史跡が幾つかある。
日本兵上陸の碑、琉球藩民墓、四重渓石門古戦場、牡丹社事件紀年公園、牡丹社事件故事館などがある。

来年は牡丹社事件150周年という事で現地の牡丹郷では記念となる催しを計画しているようです。

琉球藩民の船が1871年に台湾八瑶湾に漂着する前の1867年3月12日、同じように米国船ローバー号が台湾東海岸に漂着し、その乗員が台湾原住民に殺害されるローバー号事件が発生していた。厦門の米国領事であったチャールズ・ルジャンドルは中国側や台湾側に問題の解決を訴えたが、受け入れられず、自国の軍を派遣するも惨敗。それでも何とかパイワン族南国連合のリーダー的存在であったトキトクと「遭難船が赤い旗を掲げれば攻撃しない」という「南岬之盟」という条約を結んだ。

その後、牡丹社事件で琉球藩民が原住民に殺されると、ルシャンドルは明治政府に「台湾に出兵し原住民を討伐するべきだ」と提唱した。その後ルシャンドルは明治政府外務省の顧問となった。

また明治政府は当時、廃刀令などを含めた四民平等政策を実施、徴兵令や治安維持の為の警察の導入などで士族(元武士)の不満が高まっていた。その不満の解消のための出兵であったともされている。

さて今度は台湾出兵(征台の役)をおさらいしつつ、琉球処分(沖縄の日本併合)へと至る流れを確認したい。

明治政府は「琉球人である宮古島の人々は日本人である。台湾を統治する清国政府は、責任を取れ」と要求しました。
清国は「台湾の原住民は清国の統治が及ばない化外の民だ。よって、清国政府としてはどうしようもできない」と返答する。
明治政府「清国の統治が及んでいないなら、日本が自ら出兵し、台湾の原住民を討伐するまでだ」となった。

1874年、西郷隆盛の弟、従道は出兵を命じられ、3600名を率いて長崎を出航した。
実際、琉球人たちを手に掛けたのはパイワン族のクスクス社の者たちで、死体から首を刈ったのが牡丹社の者たちだったという。
しかし、日本が攻撃を仕掛けたのは牡丹社だった。
戦闘ではお互い、十数人の犠牲者が出るのみとなったが、牡丹社の頭目父子は殺され、村は焼き払われたという。
しかしその後、熱帯病などで日本兵の死者は561名にも膨れあがってしまった。

最終的には、イギリス公使ウェードが間に入って日清両国の話し合いを進め、
(1)清国は日本の出兵を義挙(正義の出兵)と認める
(2)日本は1874年の12月20日までに台湾から引き上げる
(3)賠償金は支払わないが、見舞金を支払う
以上の内容で日清両国の話し合いはまとまった。

清国が日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に日本有利に働いていく結果となっていく。

すでに1872年に明治政府は琉球王国を琉球藩としていた。

そして1879年、日本政府は実力行使に踏み切り、軍隊と警察を琉球に派遣し首里城の明け渡しを迫る。
琉球藩王の尚泰は明け渡しに応じ、これと同時に琉球藩の廃藩と沖縄県の設置が宣言された。
この琉球王国を日本国に併合する一連の流れは琉球処分と呼ばれている。
その後、琉球藩王尚泰は華族となり東京に住むことを命じられた。

清は琉球王朝と約500年続く冊封制度により1866年に尚泰王を琉球国王に任命していました。
つまり清は、琉球は日本ではなく清と主従関係にあると考えていました。
その琉球を日本が一方的に併合するなど到底納得できることではありませんでした。

緊張した日清両国は1880年に前アメリカ大統領のグラントが間に立って調停し、琉球に関する交渉=琉球分島案を琉球抜きで開始します。

グラントが出した案。
①沖縄を2つにわけ、先島諸島は清国に譲る。
②日清修好条規を改めて、日本にも欧米と同じ特権を認める。
これに対して、清国代表の李鴻章は次の案を提案しました。
清国の案。
②    沖縄を三分割し、先島諸島は清の、奄美諸島は日本の領土とする。
②沖縄本島は琉球王国として復活させる。

交渉の結果、日清両国はグラントの案で合意するが、琉球諸島の分島は、琉球人の向徳宏らによる清国内での粘り強い反対運動と、清露間の国境紛争が解決に向かったことにより清が条約調印を行わず、実現しなかったのでグラント案は結局、廃案となった。

その後、日清戦争で日本が勝利したことで、先島諸島を含む沖縄全島が日本の領土となった。

牡丹社事件は日本の歴史だけでなく、アジアと欧米の近現代史を理解する上でもとても重要な出来事であった。
来年は150周年を迎える。屏東県の牡丹郷では村をあげて記念式典を計画しているようだ。沖縄から、日本から是非参加したい。

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