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フェミニズム運動の目的は、男性と女性の平等をもたらすこと~『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか?』より「終わりに」をためし読み公開

 ジャーナリスト且つ等身大の母親が、現代のリアルな「男の子」に切り込む『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』(レイチェル・ギーザ著、冨田直子訳)の4刷重版出来を記念して、本書より「終わりに――ボーイ・ボックスの外へ」全文をためし読み公開いたします。ぜひご一読ください(「はじめに」もためし読み公開中です)。

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終わりに――ボーイ・ボックスの外へ

文=レイチェル・ギーザ 訳=冨田直子

 2017年末現在、私がこれを書いているあいだにも、メディアではセクシュアル・ハラスメントや性的虐待の報道が後を絶たない。ハリウッドのプロデューサー、セレブリティシェフ、映画スター、高名なジャーナリスト、政治家、グラミー賞受賞歌手、権威ある編集者、人気コメディアン――毎日のように、強力な地位にある男性たちに対する訴えが新たにもち上がる。今、彼らのわいせつ行為や性的搾取がこうして明るみに出ているのは、彼らが有名人であり、何百人もの女性たち、そして一握りの男性たちが勇気をもって名乗り出て、痛ましい体験を肉声で語ってくれたからだ。しかし、これらの著名な虐待者たちの陰には、その何千倍も、同じように一線を超えてしまった男性たち、他人の――多くは女の子、女性の――体をコントロールしようとし、圧力で沈黙させている、顔の見えない虐待者たちが存在する。

 こんな時代に男の子を育てるとなると、慎重にならざるを得ない。男らしさについて構築された有害な概念が、ジェンダー間の不均衡な力関係や、男性から女性への暴力といった犠牲を生んでいることは否定できない。しかし同時に、見落としてはならないのは、そういった男らしさについての考えやふるまいが、男の子たち、男性たちにも非常に大きな害を及ぼしていることである。若い男性たちのあいだで、ステレオタイプどおりのマスキュリニティに則り、支配的でタフな男らしさを体現しようとする傾向は、うつ、薬物乱用、いじめ加害、非行、危険な性行為、性的満足度の低さ、パートナーへの虐待などと関連付けられている。逆に、男らしさのルールに同調しない男の子たちや、その基準を充分に満たせない、あるいは満たそうとしない男の子たちも、いじめのターゲットになったり、ばかにされたり、排斥されたりというリスクを負う。「有毒なマスキュリニティ」とも表現されるような、この極端なバージョンの男らしさは、まさに破滅的である。そこには、相手を思いやる気持ちや、無防備さ、寛容さは一切ない。しかも、残酷な冗談のようだが、この種の男らしさは不確実で持続しない。それによって与えられるパワーは一時的なものに過ぎず、示威行為と拒絶とを繰り返すことで、常に強化し続ける必要がある。外側から見ている私には、マン・ボックスはとても孤独な場所のように感じられる。

 それでは、若い男性たちがより包括的でのびのびとしたマスキュリニティを選び取るために、私たちはどんな手助けができるのだろうか? 承認、仲間意識、ステータス、権力といったかたちでマン・ボックスが特権や利益を与えてくれているうちは、マン・ボックスを捨てることは難しいだろう。当然だが、明らかな不利益しかないなら、そもそも男性たちがこれほど意欲的に伝統的マスキュリニティを受け入れて従っているわけはないのだ。女性の場合、ジェンダーステレオタイプのもたらす不利益は、男性よりも明白に感じられる。女らしさのステレオタイプは物質的な損を伴うからだ。低い給与から、生殖の選択肢の制限から、暴力に甘んじることまで、女性たちを従属させたままにしておくことを正当化するために用いられているのが、女というものは弱くて、ヒステリックで、表面的で、計算高く、ふしだらで、などなどというステレオタイプなのである。それを是正しようとするフェミニズムは、そのほかの公民権運動や社会変革運動と同じく、女性たちに「もっと多く」のものを――もっと権利を、もっと平等を、もっと機会を、もっと正義を――目に見えるかたちで提供してくれる運動だ。それに比べて、男の子と男性に過剰に与えられている権力と特権を手放させるための運動を起こすことは、ずっと難しい。一部の人たちに損失として受け止められることはまず避けられない。男性の権利擁護運動のレトリックにおいて、被害者意識が色濃いのはそのためである。

 変革に立ちはだかるもっとも大きな障害のひとつになっているのは、いまだに続く、男性らしさと女性らしさを対立させる考えかたである。片方が上がれば、もう片方が下がる。しかし実際のジェンダー平等とは、どちらかが得をすれば必ずもう一方が損をする仕組みではない。お互いを敵と見なしていては、私たちの誰ひとり、本来の能力をじゅうぶんに発揮して成功することはできない。優しさや傷つきやすさのような、女らしさやフェミニニティと関連付けられる性質が悪しきものとされていれば、女性がおとしめられるだけでなく、男性も自分にそんな性質があることを認めにくくなる。女性が尊厳や自立性に値しないと見なされている限り、男性は女性に対して力を行使し続けるだろう。女性を窮屈で有害な女らしさのジェンダーステレオタイプから解放することと、男性を窮屈で有害な男らしさのジェンダーステレオタイプから解放することは、緊密に結びついているのだ。私たちは、お互いの存在なくして前に進むことはできない。

 そして私たちは、前に進まなくてはならない。社会の動いている方向は明らかだ。働いて経済的に自立する女性はますます増えている。男性は適応するか、後れを取るかである。すでにそんな状況が現実になっている場面もある。例えば、この数十年間で父親のありかたがどれほど変わったか考えてみてほしい。現代の父親は、一世代前には想像できなかったほど子どもの生活に深く関わっている。私と姉は、父に愛されているけれど、彼は1970年代の父親らしく、私たちが幼い頃の日常的な育児にはほとんど関わっていなかった。おむつも替えていないし、お医者さんに連れて行ったこともない。しかし今、私の友人の男性たちを見ると、当然のように歯ぐずりやおむつかぶれについて話し、学校の送り迎えをするために仕事のスケジュールを調整している。うちの近所の公園は、ブランコを押したり砂のお城をつくったりしているお父さんたちでいっぱいだ。まだ、彼らのような男性が標準型とまでは言えないかもしれないが、すでに例外でなくなっていることは確かだ。

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 それでは、次はどうすればいいのだろう? まず私たちにできるのは、女の子を教育し、励ましているのと同じやりかたで、男の子たちを教育し励ますことだ。フェミニズムの仕事は終わりというにほど遠いが、それでも、女の子たちが得る機会は飛躍的に改善している。今では、学校でもスポーツでも、人文学系でも科学分野でも、女の子たちの努力と成功が応援されるよ
うになっている。

 伝統的なジェンダー役割は超越することができるのだと、私たちは女の子たちに盛んに言うようになったし、女の子たちもそう信じるようになっている。女の子は、強くありながら感情を表現することも、タフさと思いやりを兼ね備えることもできる。ジェンダー格差は残っているが(例えば今も政治やテクノロジーの世界では情けないほど女性が少ない)、女の子のほうが劣っているという主張には、明確な不信感が表されるようになった。女の子は生来的に数学が苦手だとか、月経周期のせいで優れたリーダーにはなれないという意見に対しては、批判と、豊富な証拠に根差した反論が向けられる。

 しかし男の子と男性に関しては、私たちはいまだに、彼らの問題点も短所も、そして長所も、生物学的な結果なのだという考えにしがみついている。女らしさはつくられたものだが、男らしさは生まれつき、というわけだ。女性に影響を与えている社会的勢力や構造的不平等が、他方では男性のありかたやステータスを形づくっていることは、本書の中で充分な証拠とともに示すことができたと思う。私たちは、男の子の問題行動を当たり前で生来的なことのように扱い、「男の子だからしょうがない」という考えを肯定することにより、危険行為であれ性暴力であれ成績不振であれ社会的孤立であれ、男の子の苦境や欠点の陰にある、男らしさというイデオロギーを見逃してしまっている。もう一つ重要なのは、男の子の状況をめぐる議論のなかでは、人種や階級のバイアス、ホモフォビアやトランスフォビア、障がい者差別、その他の偏見が与える影響が考慮されていないことである。このような偏見によって、大人が特定の男の子たちをどう受け止め、扱うかは変化する。それがひいては彼らの得る機会や、自尊心の形成にも影響するのだ。

 だから私たちは、これまで女の子たちにしてきたのと同じように、男の子たちにも、ジェンダーの規範や制限に立ち向かうことを応援してあげなくてはならない。特に、ジェンダーに関する態度が固定し始める思春期前の時期が大切だ。自分の感情を言葉で表現する方法を教え、助けを求めてよいのだと教えなくてはならない。彼らが、優しさや慈しみの気持ち、豊かな表現力や傷つきやすさを見せることができるような機会をつくらなくてはならない。セックスや愛やコミュニケーションについて彼らに語らなくてはならない――しかし、それよりも必要なのは、私たちが彼らの話を聞き、彼らから学ぶことである。私たちは、均一な集団としてではなく、複雑で個性のある人間として、男の子たちを見つめなくてはならない。すでに、変化をけん引している若い男性たちはたくさん存在する。

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出典:'The Future is Female': T-shirt worn by student sparks discussion at Guelph high school(CBC

 本書でもこれまで、そんな男の子たちが登場してきたが、ここでもうひとつエピソードをご紹介しよう。2017年10月、オンタリオ州ゲルフに住む高校生、エリカ・ブラウンは、「The Future Is Female(未来は女性だ)」と書かれたTシャツを着て登校した。1975年につくられ、ニューヨークのフェミニスト書店「ラビリス・ブックス」で売られていたものがオリジナルの、レトロなデザインのTシャツだ。数年前にリバイバルされると人気となり、イギリス人モデルのカーラ・デルヴィーニュのようなセレブたちが着用し、フェミニズムのデモ行進や集会でも見かけられるようになった。未来が不確かに感じられ、『侍女の物語』に描かれたようなディストピアが現実に迫るかのような現代からフェミニズム史上の希望あふれる瞬間に向けたオマージュと言えるだろう。このTシャツは、女性たちを応援するポジティブなメッセージとして、ブラウンがフェミニストのいとこからプレゼントされたもので、ブラウンはこれが男性を否定しているとは思わなかった。しかし、このシャツを着て学校に行くと、廊下で先生に呼び止められて叱られた。彼女はブラウンに、このスローガンは不適切で男子生徒を不快にする可能性がある、と言い、もし男の子が「未来は男性だ」と書かれたシャツを着ていたらどう思うか、とたずねた。ブラウンの友達が割って入り、反論しようとすると、先生は彼女に「生意気な真似はやめなさい」と言ったという。

 当然ながら、ソーシャルメディアを得意とするポスト・ミレニアル世代のブラウンは、Facebookに不満を訴えた。「女性を力づけるスローガンだからといって、男性を打ち負かすことにはなりません」。彼女は先生に宛てた公開状でこのように書いた。「フェミニズム運動の目的は、男性と女性の平等をもたらすことです。女性を男性より強くすることではありません」。思慮深く、情熱的で、そして確かに少しばかり生意気なブラウンの意見文は、素晴らしかった。ここにも1人、自分の声を見つけた若い女性がいる。

 また素晴らしかったのが、同じ学校に通う何人かの男の子たちの反応である。彼らもブラウンを擁護する声を上げたのだ。その1人はCBC(カナダ放送協会)のレポーターにこう語った。「すごくいいTシャツだよ。未来は女性だっていうのはその通りだと思う。男のぼくから見てもすごく希望を感じるし、力をもらえるスローガンだと思った」。別の男の子はこう言っている。「男子生徒から見ても全然不快じゃないと思う。いろんなところで高い地位に着く女性はもっと必要とされているから、ぼく自身は素晴らしいTシャツだと思ったよ。男性を格下げしてるとは思わない。最高だよ」。彼はすでに自分用に「未来は女性だ」Tシャツを注文したらしい。

 これが未来の姿だ。この本を書くプロセスのなかで、もっとも心が動かされたことの一つは、ジェンダー平等を目指して取り組んでいる数多くの男性や女性、男の子や女の子と出会って話をする経験だった。彼ら彼女らは、黒人、先住民族、アジア系、南アジア系、白人、ラテンアメリカ系であり、クィア、ストレート、シスジェンダー、トランスであり、若い人も年配の人も、保守派もリベラルも、信仰のある人もない人も、さまざまな人がいた。テキサスでフットボール選手たちに性的同意と女性への敬意について指導しているコーチ、トランスジェンダーの息子をもち、ジェンダー規範に沿わない子どもたちの権利のために活動する母親、カルガリーで男の子たちに健康的な性と人間関係について教える教育者、息子たちと民族の文化や伝統とをつなぐクリー族の映画監督、ボルチモアでマインドフルネスを通じて有色人種の男の子たちを助けるヨガの先生と、活動のかたちは違っても、その中身には共通する部分がたくさんある。それぞれが、ジェンダーという地形の中に、より大きな自由地帯を開こうとしている。それぞれが、健やかな感情と思いやりの心をもった若い男性たちを育てようとしている。すべての人々にとってより良い世界――より安全で、正しく、公平で、幸せで、偏見がなく、自由な世界を目指すなら、私たちもあとに続こう。


※転載にあたり、改行および画像を追加しています。

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Boys(3刷)

《書誌情報》
『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』
レイチェル・ギーザ=著 冨田直子=訳
四六・並製・376頁
ISBN: 9784866470887
本体2,800円+税
https://diskunion.net/dubooks/ct/detail/DUBK228
好評7刷

〈内容紹介〉
自身も男の子の親である著者のギーザは、教育者や心理学者などの専門家、子どもを持つ親、そして男の子たち自身へのインタビューを含む広範なリサーチをもとに、マスキュリニティと男の子たちをとりまく問題を詳細に検討。
ジャーナリスト且つ等身大の母親が、現代のリアルな「男の子」に切り込む、明晰で爽快なノンフィクション。

〈目次〉
はじめに――今、男の子の育て方に何が起こっているのか?
1章 男の子らしさという名の牢獄――つくられるマスキュリニティ
2章 本当に「生まれつき」?――ジェンダーと性別の科学を考える
3章 男の子と友情――親密性の希求とホモフォビアの壁
4章 ボーイ・クライシス――学校教育から本当に取り残されているのは誰?
5章 「男」になれ――スポーツはいかにして男の子をつくりあげるのか
6章 ゲームボーイズ――男の子とポピュラーカルチャー
7章 男らしさの仮面を脱いで――男の子とセックスについて話すには
8章 終わりに――ボーイ・ボックスの外へ

♢はじめに~清田隆之さんによる書評をお読みいただけます♢


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