なぜ70年代のレコードは音がいいのか?『スタジオの音が聴こえる』より、イントロを公開。電子書籍配信中!
音楽とは時間の芸術である。音という空間を伝う波が、絶え間ない今という瞬間の上で、もつれてはほどけていく。かつて音楽はその全てがライブであり、その場限りの一回性のものだった。しかし、19世紀後半、レコードという記録媒体が発明されたのを機に、それまでもっぱら家で演奏して楽しむための楽譜の購入といった、ささやかなものだった大衆の音楽消費が、レコードを買い、そこに録音された音楽を再生し鑑賞するというスタイルにシフトした。大勢の人間が時間と空間の制約無く(再生装置の違いを別とすれば)同じ音を聴く。それはまさに大衆音楽、そして音楽産業の誕生だった。
そのような新しい音楽消費の形に応えるように、より「良い音」を録音するための施設としてレコーディング・スタジオは様々な分野の専門家を集め、常にその時代の最先端のテクノロジーを導入し、発展し続けた。
ならばいつでも最新の録音が最良の録音なのだろうか。答えはノーである。もちろん人それぞれに「良い音」の基準はあるが、時代を越えてレコードコレクターやDJたちの間で愛され、求められている「良い音」は今のものとは限らない。例えば、未だにオーディオファンやエンジニアの間でサウンドリファレンスに用いられるSteely Danのマスターピース『Aja』は77年のアルバムだ。
録音芸術の一つの完成形ともいわれるレコードが70年代という時代にうまれたのは何故なのか。『スタジオの音が聴こえる』の中で、著者の高橋健太郎氏は70年前後のスタジオの風景についてこう語る。
アビイ・ロードを支配するそんな馬鹿ばかしいほどに厳格なルールと闘いながら、初期のビートルズはサウンド作りを進めなければならなかったのだ。世界のビートルズならば、常に最新鋭の機材でレコーディングをしていただろう、と思いがちだが、アビイ・ロードはレコーダーがマルチトラック化するのも、ミキシング・コンソールが真空管からトランジスタに換るのも
遅かった。
対照的だったのは、ライヴァルのローリング・ストーンズが拠点としたオリンピック・スタジオで、そこでは未来的なデザインのコンソールに向かった若いエンジニア達が実験を繰り返していた。ジョン・レノンなどはしばしば、深夜にオリンピック・スタジオを偵察に訪れていたというエピソードも残っている。
現代的なレコーディング・スタジオの姿は、1960年代の終わりから70
年代にかけて、そのオリンピック・スタジオに代表されるようなインディペンデントなスタジオの中で醸成されていった部分が多い。
ロック・ミュージックを中心にして、サウンド・エンジニアリングの重要性が増していった時代。それはマルチトラック化が進み、大きなミキシング・コンソールがスタジオの顔となっていく時代でもあった。そんな時代に、レコード会社所有のスタジオよりも一歩先に進んで、音楽面、音響面でエポックを生み出したスタジオが、本書には並んでいる。一つのインディペ
ンデントなスタジオが、一つの音楽ジャンルを生み出したような例もある。
つまり、70年代を機にそれまでのスタジオのあり方を変えるような個性的なスタジオが次々に出現し、レコーディングに革命を起こしたのだ。DAWを使ったデジタル・レコーディングが主流となった今でもその影響力は揺るがない。
2000年代以後は、ミュージシャンのプライヴェート・スタジオが音楽制作の中心になっていった。そういう意味では、本書に記したようなレコーディング・スタジオをめぐるストーリーというのは、20世紀のおとぎ話になってしまった感がある。
コンピューター・テクノロジーの発達によって、以前はプロフェッショナルなレコーディング・スタジオでしか実現できなかったことが、現在では一台のコンピューターの中で行なえるようにもなっている。
とはいえ、そのコンピューター・ソフト内でシミュレーションされているのは、1960〜70年代の機材を使ったエンジニアリング・テクニックであることが多い。サウンド・プロダクションの重要性がさらに増して、音楽表現の中核を占めることも少なくない現代では、アーティストが自身の仕事場でそれに没入するようになった。だが、そこで参照され続けているのは、本書に取り上げたようなインディペンデント・スタジオの中で起った出来事なのだ。
職人的なミュージシャンたちの紡ぎ出すグルーヴ、エンジニアの技術とセンス、独自のレコーダーやコンソールなどの機材、そしてそれらを内包する建物としてのスタジオの音響特性。様々な要素が最も有機的に機能していたのが70年代だった。『スタジオの音が聴こえる』では、そのような音楽史に残る個性的なスタジオと、そこで録音された名盤にまつわるエピソードを紹介している。以下は本書の目次で、合計19のスタジオが取り上げられている。
もしかしたらあなたの愛聴するアルバムもこれらのスタジオのどれかで録音されているかもしれない。レコードに針を落とす前に改めてクレジットに目を通してはいかがだろうか。アーティストやミュージシャンだけではなく、「スタジオ」という視点が加われば音楽鑑賞はもっと面白くなるだろう。(DU BOOKS編集部)
スタジオの音が聴こえる
名盤を生んだスタジオ、コンソール&エンジニア
高橋健太郎著
高橋健太郎
音楽評論家、音楽プロデューサー、レコーディング・エンジニア、インディー・レーベル「MEMORY LAB」主宰、音楽配信サイト「OTOTOY」のプロデューサー。
一橋大学在学中から『プレイヤー』誌などに原稿を書き始め、82年に訪れたジャマイカのレゲエ・サンスプラッシュを『ミュージック・マガジン』誌でレポートしたのをきっかけに、本格的に音楽評論を始める。
現在は『朝日新聞』に寄稿するほか、『ステレオサウンド』『サウンド&レコーディング・マガジン』『ケトル』などに連載を持ち、メディアを横断した執筆活動を続けている。
著書に『ポップ・ミュージックのゆくえ 音楽の未来に蘇るもの』。プロデューサー、レコーディング・エンジニアとしても数々の録音、マスタリングを手がけている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?