不適切が生み出す癒し!?
奥さんのススメで「不適切にもほどがある」というドラマを見るようになった。
NOMAyadoにはTVはないのだが、TVerがあるのでMacBookさえあれば、ベッドに寝転びながら、食卓に置いてご飯を食べながら、昭和の時代ならお行儀が悪いと怒られるような不適切な方法で毎回楽しみに見ている。(笑)
私もすでに還暦を迎えた立派な昭和のおじさんなので、どうしても小川先生に肩入れしながら見てしまう。だから彼のような不適切と呼ばれてしまう人が、現代人の心を癒す様は、自分みたいな人間が宿をやっている意義を肯定されているような気がして、嬉しく感じてしまう。
昭和の人間を不適切と言われるのは、少しモヤモヤとするが、岡田斗司夫さんが言うところの*ホワイト社会化する令和の時代から見れば、考え方が古いとか新しいとかの問題ではなく、今の社会では受け入れられないものということのようだ。
「口は悪いけど心は優しい人」とか「格好はだらしないけど内面はいい人」という存在も、もはや許さない時代ということなんだろうな。
少し前に運動会で順位をつけないなんて話もあったけど、今では体育の授業そのものをなくそうなんて言う議論もあるとか・・・。運動の苦手な子どもたちにとって体育は公開処刑の場というのも分からないでもないが、勉強の苦手な子どもが人前で答えられなくて恥をかくというのはどう考えるのだろうか。
誰かが傷つくことを排除するのはまだ分かるとしても、その可能性があるというだけで排除されてしまう時代。それって、本当に大切なものも一緒に排除してしまうというか、物事の本質的な意義を軽視することにはならないのだろうか?
脚本を書いた宮藤官九郎さんも、そういう世の中は行き過ぎだし、違和感を感じてのドラマ化ということだったんだろうな。しかし設定や表現方法を逆手にとって、おもいっきり不適切を描き、自分のやりたいことや言いたいことに昇華させてしまうのは、さすがクドカン・・・。
きっと若い人の中でも、今の世の中を息苦しいと感じている人も多いはず。
ホワイト化する世の中に私ひとり逆らったところで孤立するだけなんだろうけど、クドカンばりに自分の価値に共感してもらえる方法論を探ぐりながら、そうした人たちを癒せる宿を作っていきたいなと改めて思いました。
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