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人を許せる人間になりたい

「そういうのを許せるようになれるといいね」

これは今年8月、私が直属の上司との面談の時に私が言われた言葉。
クソまじめと言われながら成長してきて世渡り上手を憎からず思ってきた私は社会人1年生になり、この世の理不尽をいっちょ前に噛み締めてそれはもう怒っていた。
そこに投げかけられたのがその言葉だった。

今日私はたまたま「SING2」という映画を観て、この言葉がやっと腹に落ちて
人を許せる人間になる一歩目が踏み出せたような気がした。

ということで「SING2」の感想と、「人を許せる人間になる」という今年のというかこれからの人生の抱負について、備忘録を残します。ネタバレはなるべくしてないけど含むかもしれない。

元来、私は許せないことが多かった。今も多い。

なぜなら、自分を頭がいいと思っていて、ある程度先の見通しは立てられるし、こうすればきっといい結果になるだろうと考えるのが得意だと思っている。(傲慢)

反対に「やればいいのにそれをやらなかったから周りと自分にとても迷惑がかかる」ことに物凄く腹を立ててしまう。つまり、結構、いやかなり短気。
世渡り上手がにくいタイプ。

弁解をしておくと、これは自分にもそうで。
何かやろうと思っていて自分がやらなかった時。そしてそれによって周りに迷惑をかけた時。
「なんであの時ああしなかった馬鹿野郎」
気を抜くといつまでもそうして考えてしまうので私は私を許せるようになるまで何かしらの行動を起こし続けてしまう。
それが多少無鉄砲で周りを巻き込んだとしても。

生きにくい性分であるという自覚はある。そしてその自覚は、社会人として過ごして見てむくむく大きくなり、ご立派なコンプレックスのひとつとして鎮座するようになった。

社会人になって腹たつことが増えていた。
なんでこうしてくれないの、こうすればいいのに、こうすれば私はもっと動けるのに。
完璧主義と言われてしまうのも腹が立って。その方がいい結果になるとわかっているから腹が立つだけなのに。

8月。人事的なシステムのあれで、上長と面談をする機会があった。

どこか事務的なやりとりな中、心を開き切らずに色々と話していく中で、「何に腹が立つか」と聞かれた。
思えば、ぐつぐつに煮えくり返っていた私の腹の中もバレていたのだろう。
私は少しだけ自分の心のうちを明かしてみることにした。
「約束が守られなかったり、それで周りに迷惑がかかったり、自分の思うように動けなかったりするとすごく腹が立ちます」
といった。
文字にするとなかなか新人のくせにすごいことを言っているがそれは一旦置いておく。

上長は少し困った顔をした後、
「そういうのがこれからはいっぱいあると思う、いろんな人が働いているし」
とよくある回答でいなしてくれた。そんなことはわかっとるわい。
いろんな人がいて、思い通りにいかないことくらいわかってる。
23年というちっぽけな経験でだって、そんなことはわかってきた。

でも腹が立つもんは腹が立つ。だってその方が良かったことには変わりない。

その後に上長はこう続けた。
「そういうのを、少しずつ許せるようになったらいいね」

新人の微妙に隠しきれなくなった傲慢な考えを随分寛大に受け止めてくれたものだ。

傲慢トンチキな新人も、段々と働く中で少しずつ言葉の意味が噛み砕けていった。腹が立つけどいい仕事をしている人はいっぱいいて、しかも迷惑の大概がどうしようもなかったことばかりだ。
しかも私もそうして迷惑をかけている。でも周りは許すし、なんとかしてくれる。
私がいなくても誰が何をやらかしても社会は回る。許しあっているから。
みんな理不尽なことも噛み砕いて、許して支えあっている。

ならば、と思った。
怒るんじゃなくてなるほど、と頷ける人になりたい。
上長がくれた
「人を許せるようになる」という言葉はやがて私の目標になった。

とは言えど、なかなか23年間凝り固まった考えが簡単に解れるわけもなく。
むしろ、人に腹を立てる→人を許せない→なんて心が狭いクソ野郎→自己嫌悪
という新しい負のループが生まれ始めていたここ数ヶ月。
人を許したいけど、それってどうすればいいのか。密かにうんうん唸っては忙殺されて、胸の辺りにモヤモヤと残り続けていた。

それが今日、ストンと落ちた。「SING2」という映画を観て。
ちなみに1作目は観ていない(ごめんなさい)。
けどめちゃくちゃ楽しめたし、単純に舞台好きとしてはもう涙が出て出て止まらない物語なので皆さん普通に観てください。アマプラで観れるよ。

元々B‘zの稲葉さんが声優を務められていたということもあり、とても気になっていたのだ。休みの日、時間もあるし何かハッピーなものが観たいとアマプラをポチポチ巡回していたら、あらいるじゃない。観るしかない。

再生して30分くらい、ここで私はまた怒っていた。(短気である)
物語の構成上仕方ないとはいえ、主人公グループが結構破天荒な行動をとってのし上がるのだ。
「いやいやいやいや、それはあかんやん。ルール違反じゃん」
眉間に皺を寄せて思わずスマホをスワイプしちゃう。

そこで「ああ、私また許せなくなってる」という自己嫌悪。
自己嫌悪のまま終わるのも腹立たしいしそのまま映画をちゃんとみるムーヴに戻る。

しかし段々と、その自分勝手なキャラクターたちが好きになっていく。
ムーンさんは自分の舞台を認めさせるためなら嘘だってつくしオーディション会場にだって乗り込んじゃうずるい大人だ。
嘘でうまいこと乗り切って結局周りのお陰で成功しちゃう。
ニーナは好きになれない恋人役に恋した相手を重ねて乗り切っちゃうし、
社長令嬢のポッシェは最初最高にいやな女だったけどなんだかんだ好きになってしまった。ああいうキャラクターが1番ずるい。

そのほかにも、「ずるい」シーンがたくさんあった。
でも物語の後半にいくにつれて、彼らを許し、応援している自分がいることに気がついた。
許せないことがいっぱいあるはずの彼らが、互いを許し合ってヨタヨタしながらも笑って進んで見せてくれたからだ。

そして、自分がずっと正しい場所から人を怒り続けていたことに気がついた。

冬の繁忙期の記憶がふと蘇った。
あの時、私はずっと怒っていた。

冬のプロジェクトのメンバーに選出されたものの、会社の(社会の?)それなりにいやな部分も見え始めていた私はモチベーションが上がり切らないままに参加していた。
「なんだそれ」と言いたくなるようなことばかりで、会議の進め方、共有事項、自分が何もできないもどかしさ、全部に腹が立っていた。

最後の方は不貞腐れて、カッコつけて、遠巻きに見ていた。
他の人からどんな様子か聞かれては
「もう私は何もわかんないっす」と大袈裟に肩をすくめるポーズでもして離れて眺めていた。

今でも、許せない部分はあるし。こうすればよかったのにと思う部分はたくさんある。
でも、きっと正しいルートを通っていたらできないこともたくさんあった。

正しい場所から「間違っている」と怒るのはきっととても簡単で。
もう動き出していることを必死に着地点へ漕ぎつけようと足掻く彼らをどうして私はただ批判できていたのだろう。許せなくてもなんでも、彼らは行動を起こしていたのに。

話をもとに戻そう。たとえずるくて、許せないルートを彼らが通っていたとしても彼らのゴールは「お客さんを感動させてやる」という傲慢な野望には変わりなくて、それが一つの共通言語として存在している舞台芸術の美しさをまた感じたりはしたのだけど。

そうではなくて。

許せなくても、目標のために足掻く人をただ怒り続けるのは違うな、と私は今日気付くことができた。

どれだけ周りの人に迷惑をかける道だろうが、彼らは成し遂げたいことを見据えて、そのためならなりふり構わなかった。
人の過去に土足で踏み込もうと、ルール違反を犯して劇場へ忍び込もうとも、ホテルで子供たちを解き放って大迷惑をかけようとも。
彼らにとってはそれが正解で最善だった。

彼らには目標があってエゴがあって、そこへ辿り着くためにがむしゃらにやっていただけのことなのだ。

そうか、そうか。
私に道理があるように彼らにも道理がある。その中心が違うだけでみんな幸せになりたいと思っているし、いい仕事がしたいと思っているのだ。
違うと思うなら私はその主張をして、ぶつかったとしても納得して、一緒にもがくべきなのだ。
まあそんなプロレスはしないとしても、彼らには彼らの目的があるし、それをなしえたのならどんな道でもやり方でも、いいじゃないか。
なしえたらそれが正しい道になったりもする。

私はそれが悔しくて、ずるいとずっとメソメソしていたけれど。
それが世界だ。社会だ。この世の中だ。

いい意味でも、悪い意味でも、意思あるところに道は開けるのだから。
何が正しくて、何がルール違反かなんて人の数だけ答えはあるのだから。
やったもんがちである。自分が行動する時は、自分の正しさで進めばいい。
でもだからって、自分と違う人を許せなくならなくたっていい。

「人を許せるようになる」
言葉をなんとなく噛み砕けて道標にしていても私はまだその矛先はわからなくて途方に暮れていた。
喉の辺りに詰まったままで、23年間で培われた「まじめ」「お堅い人間」といったコンプレックスと複雑に絡み合ったおかげですっかり飲み込めずにいた。

でも、やっと今日ストンと、腹に落ちる音がした。
少しだけ昨日より、いろんな人を許していける気がした。
人を許せずにいた自分も許せる気がした。




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