擬人化うさぎは差別の夢を見るか

こんチワワ。映画感想⑮『ズートピア』。

長いし、ネタバレ有り。
読み物としてはめちゃくちゃ面白いと思うので絶対に読んでくれ。

『ズートピア』というそれはそれは一世を風靡した作品がある。
もちろん私も公開してすぐに劇場に走ったのだが。

その日は土曜で映画館は沢山のお客さんで溢れていた。私は大体1人で映画を見に行くのだが、その日はそんなに仲良くないクラスメイトとばったり鉢合わせしてしまった。向こうはキラキラ女子3人組。適当な挨拶だけ交わしてサヨナラなら良かったのだが、なんと彼女らの見る作品は紛れもなくあの『ズートピア』で、さらに運の悪いことに私の選んだ席は彼女らの丁度隣だった。

私は知り合い以上友達未満の人と映画を見るのはめちゃくちゃ苦痛だ。なんなら友達と見るもの嫌なくらいだ。
理由は特にないが、強いて言うなら映画の見方だろうか。私は映画を1人で考え感じる娯楽だと捉えている。が、中には、誰かと共有するための娯楽と捉える人がいる。特にシアターにわざわざ足を運ぶ人はそういった人が多いかもしれない。
私は感動している場面や登場人物に感情移入して一緒に苦しんでいる場面で「隣に知っている人がいる」という意識で邪魔をされたくないのである。ディズニー映画が始まる直前に流れるお城のオープニングでガチ泣きするところや劇中歌で異常にノっているところなんか特に見られたくない。

まぁ、それはさておいて『ズートピア』の話だが。
この話は、警官のうさぎジュディが詐欺師のキツネニックと共にとある事件を解決しに行くという分かりやすくシンプルな話だ。
良い人(警官)×悪い人(詐欺師)という組み合わせもクる人にはグッと刺さる王道パターンではないだろうか。
だが、この作品を人気にした一番の理由は扱っているテーマにある。ズバリそれは「差別」。

ジュディ達が住んでいる時代、肉食動物と草食動物は互いに争いをやめて平和に暮らしていた。
だがしかし、未だにキツネは悪いやつだとか、ウサギは警官になれないとか、私たちで言う「黒人は凶暴」「女は普通に働けない」みたいな細かいけれどまぁなんとかしなければならない偏見が残っていた。
主人公ジュディは警官になることを夢見て日々訓練に励み、ようやく夢を手にする。
人々が憧れる大都会「ズートピア」(キャッチコピーはここでは誰もがなんにでもなれる)への配属が決まり、意気揚々と田舎を出発するのだが……。

ジュディはうさぎ。小動物で女。
警官になった彼女は大きな事件を解決しようと意気込むが、いざ働くとなると違反駐車の切符貼り。
とにかく物凄い偏見と差別だけで雇われてる。
警官になれただけありがたく思え、と。

結局それに納得いかないジュディは自らの実力を見せつける為に、誰に頼まれた訳でもない事件にわざわざ片足突っ込んでいってしまう。
詐欺師(ニック)を勝手に告発しようとしたり、上司が手をつけようとしない肉食動物失踪事件に首を突っ込んだりしている。

そうしてるうちに、肉食動物たちだけが凶暴化しているという事案が発覚。突き詰めたジュディ達は、直ちにそれをズートピアの住民たちへと知らせるのだが。
不安そうな記者や住民に向けて、ジュディは悪気なしに「肉食動物の本能が……」と口走ってしまう。
今まで平和に暮らしていた肉食・草食の関係性に亀裂がはいり、街はデモ化し、肉食動物たちへの迫害が始まった。
肉食獣であるライオンの市長に誹謗が殺到し、肉食動物の本能に怯えつつ勢力を増す草食動物と、草食動物の迫害から怯えつつ抵抗する肉食動物の対立が発生する。互いの正義がぶつかり合っている。

ここで恐ろしいのは、元々迫害される立場であったジュディが無意識のうちに差別へ加担してしまったことだ。
今まで彼女が周りからされてきた無意識な偏見を、彼女は同じように不特定多数の肉食動物にしてしまっていたのである。

この映画は本当によくできている。
嫌という程我々の深層心理に訴えかけてくるからだ。
今までジュディ目線で映画を見ていた我々は、当たり前だが主人公であるジュディに感情移入をしている。
だから、ジュディが差別されていた時は理由もなく応援してきたし、肉食動物が凶暴化したシーンを見た時は「あぁ、やっぱり本能が……」と納得してしまう出来になっている。
ここで気付かされるのは、我々もズートピアの住民と同じように無意識の偏見で物事を見てしまっているということだ。
また、最終的にはジュディと同じ草食で一見優しそうに見えた羊が実は黒幕であることが判明するのだが、これは「草食動物は絶対に弱くて優しい」、「守られるべき」と今まで映画で語られてきた根本を覆す驚愕的な事実だ。

ここでは、もちろん偏見に対するアンチもあるだろうが、肉食動物も草食動物も関係なく、悪い人間は悪い。我々は種族や性別で測ることができない。個々人のアイデンティティを大切にすべきというメッセージ性も感じる。

とにかく、『ズートピア』には、どこまでも差別や偏見へのアンチテーゼが込められている。
田舎娘が能力に応じて上京してきたにも関わらず下に見られるとか、大都会であればあるほど差別が目につかなさそうで本当はそうでもないとか、役所の仕事はマジバカおせぇとか皮肉に皮肉を重ねるアイロニのエレクトリカルパレードなのだ。

映画の最後で、ジュディは無事素晴らしい警官として認められ、ニックは草食動物の彼女助けた肉食動物として市長から認められ、晴れて警官となる。2人は市から表彰され、これからはバディとして活躍していくことを約束し物語は幕を閉じる。

なんて胸糞が悪い。
いや、オチとしては最高のハッピーエンドだ。だが、この裏に隠された真実は何だ?
ジュディは元々世間から迫害されてきた小さなうさぎだ。ニックも同じく、キツネとして産まれただけで周りから憎たらしい肉食動物として扱われてきた。
そんな2人が手柄をあげ市のヒーローとして表彰される。
ここで見えてくるのは、上の立場の人間の欲望だ。これは私の憶測でしかないが、これからこの2人は「○○初の○○」等といったレッテルをつけられ市のPRとして利用されていく。
別にそれ自体が悪いことだとは思わない。しかし、結局それも「偏見」があるから成り立つ方程式なのだということを理解しておかねばならない。

私たちが住む世界でも、例えば「女性初の○○」なんて賞賛されるシーンが多々ある。これは「女だから○○はできない」、「女なのに○○できている」という前例があっての文句だ。
これによって社会をアップデートしていこうという意識自体は素晴らしいものだ。だが、そうしなければ、そう言わなければならなかった要因はどこにあるのか。その本質と我々は付き合っていかなければならない。絶対に目を背けてはならないのだ。


ところで、『ズートピア』の登場人物は非常によく擬人化されている。
しかも、基本的にモデルになる人物がいて、その人物たちに合う動物を選んで擬人化しているように感じる。ジュディやニックは社会的弱者(地位的に)を表しているし、市長をライオンにしたのは権力者の示しだろう。
実はディズニーには『ズートピア』よりもっと前に、擬人化されたキャラクターがいる。
ディズニーに愛されディズニーを愛した男たち、ミッキーマウスとドナルドダックである。

彼らは、社会問題のために擬人化されたわけではなく、ディズニースタジオの看板として擬人化された。
ミッキーなんか特にそうだ。
ディズニーの顔となるキャラクターを作るにあたって考えられたネズミは『蒸気船ウィリー』を皮切りに大ヒット。
下手なアクションはできなくなり、優しさや主人公の権化へと成る。
彼は『ズートピア』の登場人物のように、誰か特定の人物を模して作られたわけではなく、単純にネズミの擬人化キャラクターとして作られた。

面白いのはドナルド・ダックの方で、彼はミッキーが自由に動かせなくなった代わりに作られた。正反対の性格で、正反対の見た目で彼はミッキーと対峙する。
作られた瞬間はそうとは感じさせなかったが、徐々にドナルドはアメリカ人らしい鱗片を見せ始める。
それはディズニーが戦争に絡んだアニメーションを作り始めてから見え始める。

アメリカ人らしい性格を持って彼はアメリカ人の代表として戦争アニメの主人公を意気揚々と張り始める。戦前に先頭で立たされる。
キャラクターに社会性が帯びる。
『ズートピア』のキャラクターと同じように、現実の世界の私たちを模した姿だ。

ドナルド・ダックはディズニーの看板として作られたキャラクターであると同時に、社会性を孕み人間を擬動物化したようなキャラクターでもある。

『ズートピア』の住民たちも同じように、彼らは動物を擬人化したというより、私たち人間を擬動物化したような人間と言えよう。
何故、ジュディは“ウサギ”でなければいけなかったのか。ニックは“他の肉食動物”ではいけなかったのか。
そう考えてみるとまた新たな発見や気付きができるかもしれない。

とにかく、『ズートピア』はできがいい。
社会に恨みを持っている人間が集まって制作したのかと思うぐらい、弄れ物にも純粋者にも刺さる映画だ。
これを超える「ディズニー映画」を、スタジオ側が作れるのか、作ろうとするのか、今のところそれが一番の楽しみかもしれない。

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