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街風 episode.7 〜帰ってきた男〜

 「”あの日”から、もう2年か。」

 久しぶりに地元に帰ってくると、街は以前と変わらない様子だった。俺は、駅前の花屋に立ち寄ることにした。店内に入ると美人な子が出迎えた。

 「いらっしゃいませ!」

 目一杯の笑顔を俺に向けてくれるこの子は、俺が以前に帰ってきた時には、この店にいなかったはずだ。

 「はじめまして。店主はいるかな?」

 俺は彼女に尋ねた。

 「はい!少々お待ちください!」

 そう元気良くハキハキと答えると、店の奥にいるダイ坊に声を掛けてくれた。

 「ダイスケさーん!お客さんですよー!」

 ダイ坊のやつも隅に置けないな、こんな美人を雇っているなんて。しかも、下の名前で呼ばれるくらいには親密な関係なんだな。この様子だと立ち直ることができたんだろう。俺はそう思いながらダイ坊を待った。

 「...トモカズさん!」

 ダイ坊がやってきて俺に気づいた。

 「おう、ダイ坊!久しぶりだな!いつも通り”カズ兄”でいいよ。2年前は色々とありがとうな。やっと仕事が落ち着いたから、今日は久しぶりに日本へ帰ってきた。」

 「いつまでこっちにいるんですか?」

 「今回は、1ヶ月くらいかな。ダイ坊は今夜空いているか?2人で飲みに行こうや。」

 「もちろん。ケイタとノリも誘ってみますね!あの2人も、カズ兄が帰ってきたって知ったらきっと喜ぶと思いますよ!」

 「いや、今日は2人で飲もう。」

 「分かりました。では、別日にみんなで飲みましょうか。僕だけカズ兄と飲んだってあの2人に知られたら、絶対になんで教えてくれなかったんだって怒られちゃいますから。」

 「分かった分かった!俺もあの2人と飲みたかったから、もちろん喜んで誘いを受けるよ。じゃあ、とりあえず今日は仕事終わったら来てくれ。」

 「はい、ありがとうございます!」

 「おう。さて、カナエに花でもプレゼントしてやるか。ダイ坊に選んでもらうよりも同じ女の子に選んでもらったほうがいいだろうな。」

 「では、マナミさんに選んでもらいましょうか。彼女の選ぶ花はとても好評で素敵な花束を作ってくれますよ。」

 ダイ坊はそう言うと、さっきから俺とダイ坊の会話を不思議そうに眺めていた彼女を見た。彼女は、ハッとして俺とダイ坊の近くまでやってきた。

 「何かございましたか?」

 彼女は俺とダイ坊を伺うように聞いてきた。こういう顔もするのか、表情豊かで素敵な女性だな。今日の夜にでもダイ坊に色々と根掘り葉掘り聞いてやろう。

 「マナミさん。僕の大切な人へ花束をプレゼントしたいので、マナミさんに花束を作ってもらいたいと思っています。引き受けてくれませんか?」

 俺が彼女にそう聞くと、彼女はパッと笑顔になって俺の頼みごとを快く引き受けてくれた。

 ダイ坊が店の外に並べた花の手入れをしに外へ出て行くと、マナミさんは花束を作りながら、俺に質問をしてきた。

 「ダイスケさんと仲が良いんですね。差し支えなければ、お二人の関係を教えてくださりませんか?私、このお店で働き始めて半年近く経つのに、ダイスケさんのことを何も知らなくって...。」

 俺は、その言葉を聞いて愕然とした。あんなにも仲良さそうにしていたし、マナミさんはダイ坊に好意を抱いている気がする。それなのに、ダイ坊はマナミさんに何も話をしていないのか。

 「マナミさんは、ダイ坊からあいつの過去について何も聞いてないのかい?」

 俺がそう聞くと、”はい”と答えた。

 「あいつは2年前から何も変わっていないのか...。」

 つい、独り言を呟いてしまった。

 「2年前?2年前にダイスケさんに何かあったんですか?教えていただけませんか?」

 マナミさんは、真っ直ぐな目でこちらを見てきた。

 「悪いけれど、それについてはダイ坊から直接聞いてくれないかい?俺みたいな他人が勝手に話すのは良くない。」

 マナミさんの真っ直ぐな瞳を前にすると、申し訳ない気持ちで溢れていたが、こればかりはダイ坊のいないところで勝手に話すのはNGだ。

 「分かりました...。ダイスケさんは、色々な話をたくさんしてくれるのに、過去の話になると遠くを見るような目をして、いつも中途半端にはぐらかされちゃうんです...。」

 マナミさんは寂しそうにそう言った。俺が悪いわけではないのに、いたたまれない気持ちになってしまった。

 「はい、できました!」

 マナミさんは気持ちを切り替えて、完成させた花束を俺に渡してくれた。たしかにマナミさんが作る花束はとても綺麗な出来栄えだ。これならカナエもきっと喜ぶだろう。俺は花束を片手に抱えて、マナミさんにお礼を言った。

 「マナミさん。ありがとうね。あと、ダイ坊の過去について教えることができなくてごめんね。その代わり、一つだけアドバイスをしてあげる。もしも、ダイ坊の事が好きだったら、これだけは覚えてほしい。人は過去の思い出には勝てない。でも、今や未来を作ることができるのは”今”を生きている俺たちだけなんだ。」

 マナミさんは、ダイ坊が好きというワードを聞いた瞬間に少し狼狽えたようだったけれど、最後の一言を真剣に聞いてから”はい”と答えた。きっと彼女が本当の辛さを知るのは、まだまだ先の事だろう。ダイ坊が彼女に心の扉を開いていないことを知ったら、彼女はどう思うんだろうか。

 「どうして私がダイスケさんのことを好きだって分かったんですか?」

 彼女は、俺が帰ろうとすると最後に聞いてきた。

 「それはね、顔に大きく書いてあるからだよ。」

 そう答えると、彼女は両手で頬を押さえながら少し俯いてしまった。しかし、俯いて顔を隠していても彼女の両頬が赤く染まってきているのが分かる。

 「あと、これを渡すね。」

 そう言いながら、俺はポケットから自分の名刺を1枚取り出して、名刺の裏にプライベートの電話番号とメールアドレスを書いた。

 「何かあれば、連絡して。」

 そう言って、マナミさんに挨拶をして店の外へ出た。花の手入れをしていたダイ坊は俺を見ると立ち上がってこちらへ来た。

 「また夜にお会いしましょう、カナエに宜しく伝えておいてください。」

 と、ダイスケは俺に一言だけ告げると店内へ入っていった。俺はバス停へ向かって歩いて行った。バスに乗り、目的地へ着いた。このお寺に来るのは、いつ以来ぶりだろうか。思い出を遡っていくと、10年近く前に来てからずっと来る事ができていなかった。そうか、もうあれから10年が経ったのか。

 当時の俺は、大手ゼネコンに入社して3年目の頃だった。残業漬けの毎日で、日付が変わった頃に最寄駅に帰ってくるような生活だった。ある日、いつも通り0:54着の終電で帰ってきて、駅から土砂降りの中を歩いていると、どこからか小さな鳴き声がした。”にゃあ”というか細い声を頼りに辺りを探し回ると、一匹の子ネコが道の片隅で衰弱しきって震えていた。俺は、急いでそのネコをコートの内側に入れて家に帰った。その晩は、いらないダンボールに古くなったタオルを敷き詰めて、そこに子ネコを寝かせることにした。子ネコが安心しきって眠りにつくと、俺もそのまま寝てしまった。

 翌朝。起きると子ネコの姿が見当たらない。焦った俺はドタバタと起き上がって部屋中を探し回ってもどこにもいなかった。自分の部屋を出て探そうと思ったら、カナエが子ネコを抱きかかえていた。

 「お兄ちゃん、おはよう。こんな可愛い子をどこで拾ってきたの?うちのマンションはペット禁止だよ?」

 「ああ、カナエか。おはよう。昨日の帰り道に土砂降りの中を歩いていたら、たまたま鳴き声が聞こえてきたんで探し回って保護したんだ。元気になったら、里親でも募集するよ。」

 そう言って、俺は子ネコが逃げ出していなかったことに一安心した。カナエは、少しだけ温めたミルクを小皿に取り分けて、子ネコと一緒に床へ置いた。

 「タマ、いっぱい飲んでいいからね。まだ哺乳瓶がないと飲めないかな?」

 妹がタマと勝手に名付けた子ネコは、ペロペロと器用にミルクを飲み始めた。カナエの心配は杞憂に終わった。あっという間に小皿に取り分けたミルクを飲み干すと、今度はトイレに行きたい様子だった。しまった、この家は賃貸だから床にやられてしまうと非常に困る。そう思っていると、カナエはどこからか取り出してきた土を入れた小さな箱を持ってきて、タマを持ち上げてそこに座らせた。タマは用を足し終えると、またカナエに持ち上げられて足の裏をタオルで念入りに拭かれた。そして、タオルで敷き詰めたダンボールに入れると、また気持ち良さそうに眠りについた。

 「ねえ、お兄ちゃん。タマの面倒を見るのと里親探しは私がやってもいい?」

 「おう。任せた。」

 そう答えると、カナエは嬉しそうにした。両親も、初対面のタマの可愛さに顔が緩んでいた。

 翌日、タマの里親が決まった。里親というかタマの拠点が決まった。それがこのお寺だ。ネコ好きな住職は、カナエが相談しに行くと快くタマを引き取ってくれることになった。タマを連れて行くと、住職は嬉しそうにタマを抱きかかえた。

 しかし、タマは野良猫の血が濃かった。建物の中にいることが嫌いらしくて、成長するにつれて行動範囲はどんどん広がっていった。最初はお寺の境内をすみずみまで探検していたと思うと、数ヶ月後には、丘の中腹部にあるこのお寺からずーっと坂を下っていった近くにある家にまで遊びに行っているとの情報が入った。

 今でもタマは元気にしているのだろうか。そう思いながら、お寺の入り口をくぐっていくと、日向に一匹のネコが寝転がっていた。気持ち良さそうに堂々と寝ている姿を見ると、どこか懐かしい感じがした。ひょっとして、あのネコはタマなのか?恐る恐る近づこうとすると、そのネコはいきなり飛び起きた。そして、こちらを振り返ると小走りで駆け寄ってきた。

 「やっぱり、タマじゃないか!久しぶりだなあ!あの頃は弱りきってやせ細ってたのに、今ではこんなにも肉付き良くなっているなんてなあ。よしよし、元気でいてくれて嬉しいよ。カナエもきっと喜んでいるよ。」

 タマは、カナエという言葉を聞くと耳をピクピクと動かした。そして、しゃがんだ俺の足元に自分の体を擦りつけてくる。俺は、花束を地面に置いて両手でタマをぐしゃぐしゃと撫で回した。タマは、嫌な顔一つせずにされるがままに喜んでくれた。タマが寝転がってお腹を見せてくるので、俺はそのままタマのお腹を優しく撫でていた。

 「よし。また後でな。」

 そう言って、俺はタマを置いてカナエのお墓へ歩いて行った。すると、タマも俺の後ろを追うように付いてきた。すれちがったおばあさんに”あら、タマが誰かの後ろを歩いているなんて珍しいわね。”と言われた。僕は、軽く会釈をするとタマと一緒にカナエのお墓を目指した。

 「タマ。お前はいつも自由気ままに生きているんだな。元気そうで何よりだよ。ダイ坊もタマみたいに自由気ままに生きてほしいよな。ほれ、着いたぞ。」

 カナエの墓に辿り着き、マナミさんが選んでくれた花を花立に入れた。味気ない墓石には、このくらい華やかなほうがカナエも喜んでくれるだろう。タマは、俺が差した花に不思議そうに近づくとクンクンと匂いを嗅いでいた。そして、俺がカナエの墓前に気をつけの姿勢になると、タマも俺の足元までやって来てカナエの方を向いてお座りした。手を合わせて目を瞑った。

 「カナエ。2年前は来る事ができなくてゴメンな。一つだけお兄ちゃんからの願い事がある。ダイ坊の時計の針を動かしてくれ。安らかに眠っているところ申し訳ないが、これが俺の最初で最後のカナエへのお願いだ。」

 心の中でカナエにそう言うと、俺は目を開けた。タマは、微動だにせず俺の隣でカナエの眠っている方をずっと見つめていた。俺が帰ろうとすると、タマも一緒にお寺の出口まで付いてきた。

 「タマ、どうかダイ坊の時計の針を動かしてくれないかい?命の恩人からのお願いだぞ。」

 そう言いながら、俺はまた日向に戻ってきてタマを撫でていた。タマは、ゴロゴロと喉を鳴らして気持ち良さそうな顔をしている。本当にこいつはマイペースだな、羨ましいよ。そう思いながら、タマを優しく撫でていた。タマは撫でられるのに飽きたのか、ゆっくりと起き上がってから伸びをした。そして、お寺の出口へ歩いていった。俺は、その後ろ姿を見送ることにした。タマは、少し歩くといきなり止まってこちらを振り返ると”にゃあ”と鳴いた。そして、再びお寺の外へ歩いて行ってその姿はそのまま見えなくなった。

 俺も家へ帰るか。そう思い、よいしょと立ち上がってお寺を後にした。お寺を出て行き、バス停に着くと時刻表を確認した。次のバスまで30分以上ある。久しぶりにこの長い下り坂を歩いて帰ろうかな。ちょうどその時、坂の上の方から高校生の男女が自転車に乗らずに押して歩いて帰っていた。

 「ワタルくん、またあの美味しいサンドウィッチ食べに行かない?私、あのサンドウィッチが本当に美味しくて、もう一回食べたいと思っていたの。空いている日はあるかしら?」

 「いいね!カオリさんが喜んでくれて良かったよ。僕も、あんなに美味しいサンドウィッチは滅多に食べれないから、また行きたいと思っていたんだ。お兄ちゃんのシフトも確認するね。きっとカオリさんと会ったら、色々と質問攻めにあって疲れちゃうと思うから。」

 他愛ない会話をしながら、2人は俺のすぐ横を通り過ぎていった。いいなあ、甘酸っぱいなあ。青春の1ページって感じだよなあ。見ているこちらがむず痒くなってしまうくらいにピュアな2人を少し見送ると、俺は坂を下りはじめた。俺がここを通っていたのは、今からもう20年近くも前になるのか。あの頃は、ショウコもいて幸せだったな。セピア色に染まってしまった記憶の中のアルバムは、すっかり日焼けして色褪せてしまっていて、ぼやけていたりところどころ失っていた。柄にも無く自分の青春の思い出を捲りかえしては、時が経った現実を直視してため息をついた。

 「俺もダイ坊のことを言えないな。」

 そう呟くと、後ろから男女の大きな声がしてきた。

 「トモヤー!今日は海に行こうよー!部活で色々とあって、全部吐き出したい気分なんだよー!」

 「ええ...。この時期の海ってもう寒いぞ!じゃあ、ちょっとだけ行こうか。」

 「ありがとう!さすが私の彼氏!」

 「おい、ユミー。そういう時だけ”彼氏”って言うのやめてくれよな。いつもは”トモヤ”呼びなのに。」

 「あはは。ごめんごめん。コンビニであったかい飲み物を買ってから行こうね!」

 そう言って、元気な女の子と優しそうな男の子は、自転車に乗って颯爽と僕を追い抜かしてきた。海か、そういえばあのこじんまりとした海岸はまだあるのかな。この高校から家に帰るまでの道を逆方向へずっと行った先にある、路地裏をかいくぐって行かないと辿り着かない秘密のスポット。そこには、若い頃の俺の過ちも含めた色々な思い出が詰まっている。明日から暇だし、たまには行ってみるか。そう思いながら、俺は長い下り坂を歩き続けた。

 長い下り坂を下りきってT字路を左に曲がると、そのまま平坦な道を歩き続けていった。歩いて10分ほどすると、俺は実家に着いた。

 「ただいまー。」

 玄関を開けて挨拶をすると、お袋が出迎えてくれた。

 「おかえりなさい。」

 お袋はいつも笑顔だ。きっとカナエの天真爛漫さはお袋譲りだったんだろう。ただ、やっぱりいつも少しだけどこか寂しさが顔の表情に見え隠れする。自分の愛娘を失ったんだから無理はない。

 僕は玄関を上がると、そのままカナエの仏壇に挨拶をした。上着を脱いで手洗いを済ませてリビングに行くと、夕食の準備をしてくれていた。小さな小さなお皿にカナエが大好きだったハンバーグを小さく切り分けると、お袋は仏壇にお供えしてきた。

 「さあ、食べましょう。」

 俺とお袋は、仕事で夜遅くなる親父を待たずに夕食を食べることにした。俺はお袋に、ついこの間まで手掛けていた仕事の事や2年前の葬式に立ち会うことができないことを詫びた。俺の今の部署は、海外事業を担当していて、海外の大きな案件を数年単位で現地に赴任して仕事をする。”カナエ”の訃報を聞いたのは、東南アジアでトラブル続きだった頃だった。どうしても現地を離れることができず、気づけば案件も無事に納めることができて2年の月日が経っていた。

 「今日はこの後また出掛けるから。」

 夕食を食べ終えて、食器を片付けながら俺はお袋に伝えた。皿洗いを済ませると俺は再び上着を羽織って出掛ける準備をした。

 「気をつけてね。」

 お袋はそう言うと、玄関まで来てくれた。マナミと最後に別れた時もいつもと同じようにこうやって見送ったのだろう。

 玄関を出ると、風は少し肌寒く、空には星がまばらに輝いていた。街灯も蛍光灯からLEDになっており、変わっていないと思っていた街も少しずつ変化をしていた。自分の記憶の中の街と答え合わせをしていくと、やはり色々なところが変わっていた。

 俺は、数年ぶりに何も変わっていない重い扉をゆっくりと開いた。年季の入った木目調の重厚なこの扉も、取っ手部分の金属は少しメッキが剥がれていた。

 「こんばんは。」

 そう言ってカウンターのマスターに声を掛けた。ああ、久しぶりだ。薄暗い店内と特注のバーカウンター。棚に所狭しと置かれたお酒は昔と何も変わっていない。

 「カズか?カズなのか?」

 マスターは、俺を見ると問いかけた。

 「ユウジさん、ご無沙汰しております。久しぶりに仕事が落ち着いたので、日本へ戻ってきました。今回は特別に1ヶ月間の休暇をいただいたので、しばらくはこの街にいます。」

 そう言って、僕はユウジさんに挨拶をした。ユウジさんは、このバーのマスターで、ここは多くの常連さんで満員になる日もあるような人気のバーだ。

 「そうか。よく来てくれたなあ。ありがとう。それにしても、あれからもう2年が経ったんだなあ。」

 そう言いながら、ユウジさんは僕がカウンターの左から2番目の席へ座ると、灰皿を差し出してくれた。

 「ええ、もう2年が経ちました...」

 俺は、ジャケットのポケットからハイライトを取り出して、箱から一本抜き取ると口に咥えながら、ユウジさんに答えた。

 「あっという間ですよね。」

 そう言って、タバコに火を付けると煙をフッと吐き出した。俺とユウジさんは、行く当ても無く彷徨い続ける煙を眺めていた。

 他愛ない話をしていると、ダイ坊がやってきた。俺を見つけると、遅れてすみませんと言って隣に座ってきた。

 「おう。気にすんな。何にする?」

 俺は、吸っていたタバコを灰皿に押し付けながら、ダイ坊に訊いた。

 「じゃあ、いつもので。」

 「おう。ユウジさーん、いつものウイスキーをロックでお願い!」

 俺はユウジさんに声を掛けると、ユウジさんは慣れた手つきで2本のボトルを探した。アイスピックで砕かれる氷の音が心地良い。グラスに入れられたロックアイスは、カランと乾いた音を鳴らした。透明なグラスがゆっくりと琥珀色に染まってきた。

 「はい、どうぞ。」

 そう言って、ユウジさんは俺とダイ坊へグラスを差し出した。俺はボウモアのロック、ダイ坊にはマッカランのロック。2人で静かに乾杯して、琥珀色に染まった液体を口に流し込んだ。いつもと変わらない味だ、楽しかった時も悲しかった時も、このバーで飲むボウモアだけは変わらないままだ。俺は、口に広がった少しスモーキーな香りを楽しみつつ、タバコをまた口に咥えて火を付けた。ウイスキーとハイライトのほろ苦さが口の中で混ざり合う、この感じが何ともたまらない。

 「カズさん、本当に申し訳ないです。”あの日”もっと遅い時間に集合していれば、カナエは...」

 そう言って、ダイ坊は静かに目元を拭った。

 「ダイ坊、あれは誰も悪くないんだ。車を運転していた人も歩道を歩いていたあの親子も誰も悪くない。ましてや、ダイ坊が悪いことなんて一つもない。だから、もう気にするな。」

 俺は、ダイ坊にそう言いながら肩をポンッと叩いた。少し悩んだが、俺はダイ坊に”あるもの”を渡した。

 「ダイ坊。実は、俺はお袋にも親父にも黙っている秘密がある。本当は、この秘密は墓まで持っていくつもりだったが...。」

 俺はボウモアを一口飲んで、吸っていたタバコを灰皿に置いた。そして、二つ折りのメモ2枚と便箋1枚をジャケットのポケットから取り出してカウンターに置いた。

 「まずは、こっちのメモだ。」

 「なんですか、これ。誰かの...連絡先。」

 ダイ坊は一つ目のメモを受け取り、中を開きながら俺に聞いてきた。そこには、携帯の電話番号とアドレスが書いてある。

 「...これは、リョウの奥さんの電話番号とアドレスだ。覚えているか?」

 俺は、ダイ坊に聞いた。

 「もちろん、カナエを殺した...。」

 ダイ坊は、少し苛ついたように言葉を選ばず言った。そして、マッカランを一気に飲んだ。

 「ダイ坊。その言い方はやめろ。」

 俺は、静かにダイ坊を叱った。

 「でも、カナエはあの人の運転した車に...」

 「あの人は、死んだよ。」

 俺は、ダイ坊の話を遮るように言った。

 「え?どういうことですか?」

 ダイ坊は、戸惑っている様子だった。

 「あの人は、今年の4月に自殺した。死ぬ直前まで2年前の事故のことを悩んでいたらしい。奥さん、”ユキコさん”って言うんだが、ユキコさんにも周りの人にも誰にも悩みを言うことができずに、ある日いつものように家を出てから、そのまま帰ることはなかったらしい。今年の4月、この街の海で入水自殺をした人のニュースがあったらしいけれど、ダイ坊は知らないかい?」

 「知ってます。身元不明で確認中って新聞やニュースには書いてありました。」

 「その人が、リョウさんだったんだ。俺は、カナエの葬式に行けなかったから、代わりにリョウさんと手紙でやり取りをしていたんだ。そして、リョウさんからの最後の手紙がこれだ。」

 そう言って、俺はダイ坊に便箋を1枚渡した。そこには、自分がカナエにした取り返しのつかない過ちに対しての謝罪がびっしりと書いてある。ダイ坊は、俺からの便箋を大切そうに両手で受け取ると、薄暗いバーで静かに読み始めた。その間、俺は飲み干したグラスを見てマスターにアムルットのロックを頼んだ。そして、またタバコに火を付けると白い煙の行く先を目で追っていた。

 便箋を読み終えると、ダイ坊は静かに便箋を折りたたんで俺に戻そうとした。

 「それは返さなくていい。この便箋を読んで、ダイ坊はどう思った?これは俺の勝手な想像だが、きっとリョウさんは時計の針がずっと2年前から止まったままだった、どんなに時が経ってもいつまでも心はあの日に縛られていて、たった独りで未来へ進むことができなかったんだ。今のダイ坊と同じようにな。」

 「俺は...。」

 ダイ坊は、言葉が続かなかった。きっと心の中では色々と感情があるのだろうが、言葉という形に嵌め込むには躊躇いがあるのだろう。俺とダイ坊は、静かにウイスキーグラスを傾けた。

 「そして、これはエリからだ。」

 そう言って、先ほどのメモよりも一回り大きいメモを渡した。

 「これは...。」

 「...エリちゃんからだ。」

 ダイ坊は、こちらを見向きもせずに食い入るように何度もメモに書かれた文字の一つ一つを丁寧に見ていた。エリちゃんっていうのは、あの日にカナエが助けた中学1年生になった女の子だ。

 ダイ坊は、その手紙を見て静かに涙を流した。それもそのはずだろう。あの日に救われた命は、すくすくと育っていって中学生になっていた。時の流れは、どんなに本人が止めようとしていても残酷にそして無情に過ぎていくものだ。俺は、リョウさんとエリちゃんの家族から定期的に手紙が送られていた。その手紙たちは、それぞれ二つの箱に大切にしまっていて、いつか日本に戻ってきた時に、お互いの家族とやり取りしていた数々を清算しようと思っていた。今回は会社に無理を言って1ヶ月間の休暇をもらったのも、自分の過去を全て清算するためだった。

 ダイ坊は、メモ2枚と便箋1枚を羽織っていたジャケットの内ポケットに大切そうにしまった。そして、また2人でグラスを傾けて色々な話をした。他のお客さんが帰るとユウジさんも一緒に入って、3人で夜遅くまで昔話に花を咲かせた。

 深夜2時。明日も仕事だったダイ坊は、いつまで経っても帰ろうとしなかった。俺とユウジさんで何とか説得すると、”分かりました。でも、明日もまた飲みましょうね。”と言って、渋々お店を出て行った。相変わらず、いつも帰り際は寂しそうにするのがダイ坊だ。やれやれ、と思いながら俺はユウジさんと再び話をした。グラスに注がれた琥珀色は色鮮やかに澄んでいて、溶け出して崩れたロックアイスがグラスに当たった音が静かに響いた。

 「カズは相変わらずハイライトを吸っているんだね。このご時世で喫煙者はどんどん減っているよね。」

 ユウジさんは、俺のタバコを吸う姿を優しく見つめながら言ってきた。

 「ああ、そうだな。もうずっとだなあ。」

 「そういえば、ダイスケくんは未だにタバコを吸っていないよ。カナエちゃんと約束したんだっけ?やっぱり彼はカナエちゃんの幻影にとらわれているね。これが結婚して長年連れ添った老夫婦ならまだしも、ダイ坊はまだ30歳だ。何度も説得したのに、ダイスケくんはいつも話をはぐらかしてくる。」

 ユウジさんは、やれやれと呆れたように呟いた。俺もユウジさんも気持ちは一緒だ。きっと、カナエも。

 俺は、4杯のウイスキーと10本のタバコを嗜むとユウジさんにまた来ることを告げて、お店の外に出ようとした。チェックを済ませてお釣りをユウジさんから受け取ると、ユウジさんは思い出したように一通の封筒を俺に渡してくれた。

 「これを、カズに渡すように頼まれていたんだ。こんなに時間が掛かるなら、カズに郵送してあげれば良かったよ。でも、本人がそれだけは拒んだからね。」

 ユウジさんから受け取った封筒の表面には、俺の名前が綺麗な字で書かれていた。俺は、見覚えのある字のような気がしたが思い出せないまま、ひっくり返して裏面の差出人を見た。

 「...ショウコ。」

 俺は、その名前を見た瞬間に立ち尽くした。どうしてショウコが俺に手紙なんか渡しに来たのだろうか。そして、なぜ俺ではなくてユウジさんに託したんだろうか。

 「その手紙の中身は、お酒が抜けてからゆっくりと読んだほうがいい。ノリがカフェを開いているから、そこで美味しいサンドウィッチとコーヒーでも楽しみながら、こいつを読んでやってほしい。」

 マスターにそう言われた俺は、ジャケットに手紙を入れて持って帰った。お店の外に出ると、凍てついたような空気が鼻にツンと来た。

 やれやれ。ショウコの名前を見ただけで動揺するなんて、俺の時計も過去から止まったままかもしれないな。ダイ坊のことを言う前に、まずは俺の過去を清算するところからだな。

 明日はノリのサンドウィッチを食べに行こう。


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