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街風 episode.22 〜WALKING UNDER THE MOON〜

 「あー、お腹いっぱい!」

 ケンジ先輩は膨らんだお腹をポンポンと叩きながら、満足そうな顔をしていた。

 「でも、お腹だけじゃなくて胸もいっぱいになりましたよね。」

 私はケンジ先輩の隣を歩きながら、つい先程の出来事を振り返っていた。

 今日は午後から慌ただしい1日だった。ケンジ先輩も私もサークルの予定が無くなり、どこかで軽くお茶でも飲んで帰ろうか、と話しながら歩いていたら、ケンジ先輩のバイト先の店主ノリさんから電話が来た。そう、妹のカオリから聞いていたノリさんからだ。ノリさんは電話越しでとても慌てていたらしく、電話で話していたケンジ先輩もつられてあたふたしていた。そして、チラッと私の方を見た。

 「分かりました。強力な助っ人を連れてそちらへ向かいます。」

 電話を切ると、ふうっと一息ついたケンジ先輩は携帯をしまい、身体ごとこちらを向いてじっと見つめてきた。

 「マイちゃん。この後、予定無かったよね。今度絶対にお礼するから、今から俺のバイト先に来て、お店の手伝いをしてほしい。」

 「え、今からですか。」

 「そう。無理なお願いって分かってるけど、どうしても来てほしい!マイちゃん、飲食店でバイトしてたよね。」

 「今日は予定が無いからいいですけど、本当に私なんかが役に立つか分からないですよ。」

 「たぶん俺よりもできるよ。よし、決まり!じゃあ、早速今から行こうか!」

 半ば強引に2人でノリさんのお店に手伝いに行くことが決まった。私は、お母さんに今日の夕飯はいらないとメールで伝えた。

 ノリさんのお店は、メニューもそこまで多くはないらしく、店内も程良い広さらしいので、3人もいれば確実に大丈夫だとケンジ先輩は言った。

 ノリさんのサンドウィッチは今まで食べたサンドウィッチの中でも別格の美味しさだった。カオリがワタル君と付き合った日、カオリが持って帰ってきてくれたサンドウィッチは、ワタル君と付き合った経緯のお土産話と共に、私を優しく満たしてくれた。そして、いつか私もお店に行きたいと話していたのに、まさかこんな形で実現するなんて。

 「お店はこっちにあるんだ。」

 いつもの駅に戻ってきて、いつもの道を少し歩いてから、いつもと同じ交差点をいつもと違う方向へ曲がった。そういえば、駅から家までの道って最短ルートしか通らないから、身近にあるのに知らないお店とか家が沢山あるなあ。

 ケンジ先輩は、お店に着くまでにどんなメニューがあるのか、ノリさんの面白いエピソード、色々な話をしてくれた。

 「ここだよー!」

 ノリさんのお店に到着した。落ち着いた外観のそのお店は、周囲の住宅ばかりの景色に上手く溶け込んでいた。

 ケンジ先輩に扉を開けてもらってお店に入る。扉を開けた瞬間にふわりと漂ったお店の香りは、入ってくる人を自然と落ち着かせ懐かしい気持ちにもさせてくれるような気がした。

 「おー、よく来てくれた!ありがとう!今日は忙しくなるから覚悟してくれ!」

 「お疲れ様です。こちらがさっき電話で話した強力な助っ人、マイちゃんです。」


 「マイちゃん、ありがとう。ケンジが無理言ってごめんな。とりあえず、今日はよろしく。」

 「こちらこそ、突然お邪魔してすみません。役に立つか分からないけれど、今日1日よろしくお願いします!」

 「礼儀正しくありがとう。でも、もうそんな固っ苦しい挨拶は俺にはいらないよ。俺の事は、“ノリ”って呼んでくれ。」

 「よし、じゃあ荷物置いて着替えようか。」

 ケンジ先輩は私をバックヤードに案内してくれると、未開封の綺麗に折り畳まれた黒エプロンを持ってきてくれた。私は、荷物を隅のテーブルにまとめて置いて早速エプロンを来た。今日は、タートルネックにジーパンというシンプルな服装だったので、エプロン姿の自分を鏡で見ても特に変な感じはしないと思う。

 「うん、似合ってる。よし、行こう。」

 ケンジ先輩は、私を連れてお店に出るとレジの使い方やメニュー表、オーダー票の書き方、各座席と番号、必要な事を丁寧にゆっくりと教えてくれた。幸いにも、私がバイトをしていた飲食店と同じような仕様なレジだったし、座席のレイアウトも綺麗に洗練されており、すぐに覚えることができた。

 ディナーメニューもメインは3種類しかなく、ドリンクメニューも数種類のリキュールで回せるカクテルとワインがあるだけで、ケンジ先輩が事前に言っていた通りだった。

 そして、お手伝い開始。今日は予約客が多くて忙しくなるとの事だったが、予約以外にも常連のお客さんが沢山来て、ノリさんとケンジ先輩の予想以上の大盛況だった。最初は、お店の雰囲気を掴むために、お店へやってきたお客さんを空いている席へ案内したり、お会計を担当していた。しかし、気づいたら自分からオーダーを取ったり料理を運んだりもしていた。飲食店でバイトをしていた時の事を身体が覚えていたらしい。自分でも不思議なくらい動くことができたし、久しぶりのこの感覚がとても楽しかった。

 「あら、初めましてね。」

 「はい、今日だけお手伝いで来ています。」

 常連のお客さんの数名から声を掛けられた。どのお客さんも優しくて良い人たちばかりだった。ノリさんの人柄もあってか、このお店に来るお客さんはみんな話し方も優しくて良い人ばかりだった。また来てね、と言ってくださる方もいて嬉しかった。

 お手伝いを始めてみて、このお店の凄さが分かった。ノリさんの料理やお客さんの質の良さは勿論だが、何よりも働く方もとてもやりやすい。店内のレイアウトは綺麗に洗練されているだけではなく、お客さんと従業員の動線もしっかりと確保されている。お客さんが店内に入れば、行き来するのはトイレと自分の座っているテーブル程度だ、しかし、カウンターがあるお店のレイアウトでよく見かけるのは、トイレまでの通路とカウンターを出入りする場所が近くに存在していて、店員とお見合いしてしまう事だ。そこにレジや出入り口までも近くにあるならば、人がそこに集中してしまう機会も増える。でも、ノリさんのお店では違った。トイレはフロアの奥の通路を歩いた突き当たりにあり、料理を出したり会計をしに行ったりテーブルセットをしようとする私とバッティングする事は無い。それに、会計のレジもカウンター出口すぐにあり、出入り口の通路を跨ぐ必要が無いため、こちらも使い勝手が非常に良い。そして、お客さんが通る通路は人2人が通れる程度の幅が必ず確保されているので、カウンターに座っているお客さんが後ろを歩く人の気配がとても気になるわけではないだろうし、万が一バッティングしても難なく通ることができる。そして、働く私もオーダーを取ったり、料理を運ぶまでの動線が確保されており、今まで働いていた飲食店よりも店内は狭いはずなのに、とても動きやすく働きやすかった。

 ケンジ先輩もお客さんも気づいていないが、このお店はノリさんの格別に美味しい料理だけでなく、みんなが居心地良く快適に過ごせるように配慮されたレイアウトも素晴らしい。

 そんな事に勝手に1人で感心しながら私はケンジ先輩やノリさんに負けないようにテキパキと働くことにした。

 ようやくピークも過ぎ、気づけばラストオーダーの時間だった。各テーブルとカウンターを回り終わって、最後のオーダーをノリさんに告げる。不思議と疲れは全く無く、きっと忙しいながらもストレス無く動き回れるこのお店のおかげだろうと思っていた。

 最後のお客さんを見送り、私たちは締め作業に取り掛かった。私がテーブルに残った片付けをして、ケンジ先輩は床掃除とトイレ掃除、ノリさんは私が持って行った食器やグラスを洗い続ける。

 その時にこっそりとノリさんに私がカオリの姉である事や“土曜日の女神”について聞いていることを伝えた。ノリさんは驚きながらも、ケンジ先輩にはまだ秘密にしようと約束した。ノリさんは最初に会った時から本当に気さくで話しやすい。

 仕事も終わって一段落すると、ノリさんは私たちに賄いをご馳走すると提案してくれた。私たちは喜び、急いで帰る準備を済ませてカウンターに座った。待っている間、今日の出来事をケンジ先輩と振り返っていた。ケンジ先輩もノリさんも私の仕事を褒めてくれて、なんだかとても照れ臭かった。私も久しぶりの飲食店での仕事と噂のノリさんのお店で働くことができて、とても楽しい1日だった。ノリさんの賄いを食べて今日が無事に終わりだなあと、思っていると看板をしまいにお店の外へ出たケンジ先輩が慌てて店内に戻った。そんなケンジ先輩に私もノリさんも注目した。ノリさんは完成した賄いを私とケンジ先輩の席に置きながら、ケンジ先輩の元へ近づこうとした。すると、入り口の扉が開いて1人の女性が息を切らしながら入ってきた。

 「ノリ!」

 そう叫ぶと同時に、その女性はノリさんの胸元に吸い込まれていった。2人は何やら会話をしていると思ったら、ノリさんもその女性をしっかりと抱き締めた。

 私とケンジ先輩は、その2人の様子をぽかんとした表情で見ていただけだった。まるでドラマのワンシーンのようだった。いざこういう場面に遭遇すると、モブはただただ口を開いてその様子を静観するしかできない。

 私たちがあまりにもじっと見ていたので、ノリさんとその女性は慌ててお互いを抱いていた両手を解き、2人揃ってこちらを向き直った。

 「こちらは、ユリエ。ケンジは知っているよな。そして、こちらは、マイちゃん。今日だけたまたまヘルプに入ってくれたケンジの大学の後輩。」

 先程の自分の行動を恥ずかしく思い始めたのか、ノリさんはぎこちなく照れ臭そうにユリエさんを紹介してくれた。

 「はじめまして、マイさん。ケンジ君は私の事を覚えてくれているかな。さっきはお見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした。」

 ユリエさんは、ノリさんをちらりと見た後にこちらを見て照れ笑いをした。

 「はじめまして。マイっていいます。“さん”付けじゃなくて、“マイ”とか“マイちゃん”って呼んでください。」

 「ありがとう、マイちゃん。」

 「あのう、差し支えなければお2人はどういった関係なのでしょうか。」

 恐るおそる聞いた私の姿が可笑しかったのかノリさんとユリエさんはお互いを見てクスリと笑った。

 「恋人よ。」

 ユリエさんは、私とケンジ先輩の方を向いてニコリと笑った。

 「え、え、だってユリエさん婚約したって言ってたじゃないですか。どういう事ですか。」

 やっとケンジ先輩からも声が出た。でも、どうやら状況が把握できておらず、質問しながらもずっと目は泳いでいた。

 「話せば長くなるけど、いい?」

 ユリエさんは、ノリさんに聞いた。

 「よし、じゃあ3人ともそっちのテーブルに座ってくれ。ケンジとマイちゃんは賄いでもつまみながら、ゆっくりと話を聞こうぜ。」

 ノリさんはそう言うとカウンターに置いた2人分の賄いをテーブル席へ運んだ。そして、4人分のホットコーヒーを淹れて自分も席へと座った。私とケンジ先輩は、2人だけ賄いを食べるのが申し訳なく、ユリエさんとシェアしようと提案した。でも、ユリエさんは既に食事を済ませていたらしく、私に遠慮せずに食べてと言ってくれた。

 「それで、ユリエさんに何があったんですか。」

 ケンジ先輩は、ノリさんの作ったスープパスタを食べながら、ユリエさんに質問をした。ノリさんの作ったスープパスタは生姜が入っているのか、スープを飲んだ私の身体はだんだんとポカポカしてきた。

 「実はね、婚約者からフラれちゃったの。私がまだノリの事を好きだってずっとバレていたみたい。必死にノリの事を忘れようとしていて、自分の気持ちすら分からなくなっていたのに、どうやら相手には見抜かれていたみたい。それで別れたその足でここに来たのよ。」

 ユリエさんは、そこからここに至るまでの経緯を話してくれた。ユリエさんの婚約者の人は本当にユリエさんが好きだったのに、自分の幸せよりもユリエさんの幸せを願ったんだ。いや、ユリエさんの幸せを願ったからこそ、ユリエさんを送り出したんだろう。しかも、ユリエさんに罪悪感を持たせないように自分からユリエさんに別れ話を切り出したのだろう。きっとこのドラマの主人公はユリエさんだと思うけれど、婚約者の気持ちを考えると少し複雑だった。でも、目の前のユリエさんは本当に幸せそうで、きっと婚約者の人もこの笑顔を守るために自分ではなくノリさんを選ばせたんだろうとも思った。それくらいに、目の前のユリエさんの笑顔は眩しかった。

 ユリエさんとノリさんの思い出話を聞いていると、ユリエさんも色々と大変だったんだと思ったし、今でも婚約者の人を大切に思っている姿は美しかった。こういう事って本当にあるんだな、と思いながら話を夢中で聞いていた。

 「そういえば、2人はどういう関係なの。」

 ユリエさんは急に私とケンジ先輩に話を振ってきた。ケンジ先輩は驚いた表情で言葉を探していた。

 「実は私、ケンジ先輩にフラれたんですよ。でも、私もケンジ先輩は良いお兄ちゃんみたいな存在だって分かって、今まで通り仲良しの先輩後輩でいるんです。」

 私がユリエさんに答えると、ケンジ先輩も慌てて相槌を打った。

 「そうだったのね、ケンジ君も勿体無い事したわね。こんなに可愛い子をフッちゃうなんて。私がケンジ君なら二つ返事でOKしてたわ。」

 ユリエさんはいたずらっぽい目つきでケンジ先輩を見た。

 「まあ、でも本当に可愛い妹みたいで大好きなんですよね。僕が恋愛とかあんま分かっていないので、ピンと来なくて。」

 「そうかあ。いつかピンと来る人と出会うと思うわ。その日までのお楽しみね。」

 それから再び4人で話をして盛り上がった。すっかり日付も変わってしまい、私はケンジ先輩に送られて帰ることにした。バイバイと手を振って見送ってくれたノリさんとユリエさんは幸せそうだった。まるで今までの時間を取り戻すかのように、ユリエさんの腕はノリさんの腕を優しくしっかりと抱いていた。

 そんな出来事を振り返りつつ、ケンジ先輩と2人で歩き続ける。月が輝く夜空はあの日のようだった。

 「俺もノリさんみたいにいつかユリエさんみたいな人が現れるのかなあー。」

 「もー、フった私の目の前でそういう事言いますか。失礼ですねー。」

 「ああ、ごめん。そういうわけでは…。」

 「別にいいですよー。だって、私はケンジ先輩の事をお兄さんとして好きなんですから。私もユリエさんみたいに、ノリさんのような素敵な男性と出会えるように頑張るので。」

 2人で月光に照らされ寝静まった街を歩く。そして、お互いにノリさんとユリエさんみたいな幸せを自分の未来と重ねていた。

 「今日も月が綺麗だね。」

 「そうですね。」

 いつか私も素敵な人と巡り逢いますように。

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