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~ある女の子の被爆体験記27/50~ 現代の医師として広島駅で被爆した伯母の記録を。“体の異変と死ぬ怖さ”最終話

(ノブコは、8月6日に広島駅の列車の中で被曝した。ほとんど傷を負うこともなく、そのまま列車は呉駅へとのノブコを運んだ。呉にはノブコの両親が住んでいた。しかし、この1年半、目の見えないおばあちゃんと二人で広島に住んでいたノブコは、おばあちゃんのことが心配で、8月7日の朝に、家を飛び出して広島へと向かった。8月7日、8日、9日と広島でおばあさんを一人で探した。原爆が落ちて3日目の9日に、ノブコはおばあさんの体の一部を見つけ、再会したお父さんとお姉さんと一緒に、呉へと帰ってきた)

ノブコは、放射線濃度の高い被爆後の広島に3日間いた。このため、現地の水を飲み、トマトやキュウリを食べた。外部被曝だけでなく、内部被曝をおったため、帰宅したノブコの体は、かつての元気なノブコとは大きく違っていた。

頭痛、嘔吐、下痢、下血、死ぬかもしれない恐怖

あれから何日経ったのだろう。ノブコは布団の中で目を覚ました。
「ノブコ!ノブコ!お父さん、来て。ノブコが起きたわよ」
トシコ姉さんの声がすると、廊下を走る音がして、障子が開いた。
「ノブコ!」
父さんも母さんもノブコの元へ来た。
どうしたの、みんな、と言うはずの声がかすれて出なかった。
お母さんが背中に座布団を入れて、ノブコの上半身をおこし、水を飲ませてくれた。
お母さんが何やら色々説明してくれているが、半分も耳に入ってこない。ただ、トシコ姉さんと父さんは、広島から帰るとそのまま1日中眠って起きられなかったらしく、ノブコ自身は3日間も眠っていたという。


父さんと母さんの2人で、おばあちゃんの頭を探しにいったことも聞いた。2人は寺町の亡くなったおじいさんのお墓を訪れ、そこへおばあちゃんの骨を埋めにいったのだ。そこで偶然、叔母さんに出会った。叔母さんは、お母さんの妹、おばあちゃんの2番目の娘だ。叔母さんは、ノブコたち3人が土橋の家で出会う前に、おばあちゃんの頭を土橋の家で見つけ、火葬してお墓に入れていた。少しホッとして、ノブコはまた目を閉じた。

激しい下痢、放射線性大腸炎

ノブコが次に目覚めた時、それは頭が割れるように痛くて、吐き気を催した瞬間だった。
母は必死に水を飲ませようとしたが、白湯を飲んでは吐くことを繰り返していた。ノブコは起き上がったが、歩けず、手を地面についたままトイレへ行った。下痢がひどく、一旦トイレにこもると、いつまでたっても出られない。水を飲めばそのまま水がお尻から出てしまうのだ。食欲も無く、お米の煮汁も喉を通らない。父さんも母さんも、ノブコを心配して気が気ではなかった。
薬をようやく見つけてきても、吐き出してしまうし、飲んでもすぐに下痢で出てきてしまう。
「あの子はもう死んでしまうだろう」
誰もがそう言った。枯れるように痩せこけていくノブコを見て、みんながそう思った。
新型爆弾を直撃した人でなくても広島に行った人は、どんどん死んでいっているという噂は、呉でも当たり前のように語られていた。父さんや母さんがどんなに防いでも、ノブコの耳にもその噂はあっという間に入った。
「あたしも、死ぬんかもな」実感のわかない思いが、うわごとのように頭の中に浮かんだ。

「なんでかな、頭がかゆいな」


2週間ほどたつと、ノブコは米を炊いた上澄みの汁が飲めるようになり、下痢の回数も多少は減った。

頭が急にかゆくなってきたノブコは、
「シラミでもわいたかな」
と思って頭をかきむしった。
すると、指にごっそりと何かが巻き付いた。自分の髪の毛だった。
「ウワァッ」
驚いて髪の毛を振り払い、もう一度頭に手をやって引っ張ると、髪の毛の塊が簡単に抜けた。枕にはバサバサと髪の毛が落ちている。

ノブコは障子を閉め切り、もう家の外に出たくないと思った。
8月15日には終戦したという話をノブコは聞いていた。負けたといっても、戦争が終わったことは良かったとしか、ノブコには思えなかったが、それは全くの他人事のようなきがした。ただ、長崎にも新型爆弾が落ちたらしいことを聞いた時は、
「なんてひどいことをするんだ」
と、布団の中で、やり場の無い怒りに震えた

ノブコはトイレに行くとき以外、4畳の部屋から出ることは無かった。このまま、この部屋で死んでしまうことも想像したが、自分ではどうしようもないことだった。ノブコの髪はすっかり抜け、襟元にまばらに髪を残すだけだった。
父ちゃんもトシコ姉さんも具合が悪く、寝たり起きたりを繰り返していた。二人とも吐き気や下痢に悩まされていて、食欲が無く、息切れもしていた。
しかし、父ちゃんは仕事を探しに毎日出かけていた。トシコ姉さんは駅に働きに出ていた。
一番重症なのがノブコだった。下痢というより、水様便、腸からジャーッと水が出るような感じだった。時には血液だけがジャーッとお尻からでた。あるとき、お母さんが家に医者を連れてきたのだ。医者を見つけるのは大変だったが、何日も待って、ようやく、ノブコのもとを訪れてくれた。
この子は、もう、そんなに生きられません。覚悟していてください
障子の裏で、お医者さんは、母さんたちにそう告げた。


ノブコにもお医者さんは言った。
「あんたの体が弱っちまっているんじゃ。そうだな、50歳までは生きられんじゃろう。だから、好きなことをして生きなさいよ」
ノブコは医者の話を聞いて、50歳までも生きられるのかと驚き、喜んだ。それからしばらくすると、米粒が少し食べられるようになった。下痢はあいかわらず続いたが、時々は、本が読めるようになった。

ピカにやられた人 

ノブコは、ゆっくり回復したが、髪の毛の無い姿は、“ピカにやられた人”だという証明だった。外には出たくなかったし、体調が悪くて、寝たり起きたりの毎日だった。

1945年が終わり、1946年の後半になっても、ノブコは寝たり起きたりの生活をしていた。

家族と引っ越しした山口市の家に、ABCC(原爆傷害調査委員会)から連絡が来た。ノブコ宛の手紙には、広島の病院で診察を受けなさいという、要請が書かれていた。

「治療はしてくれないんでしょ。検査するだけでしょ。行きたくないよ、嫌だよ」

ノブコの白血球は減少しており、貧血も続いた。

ノブコは、白血球数が少なかったが、18歳ごろにはほぼ普通の生活が送れるようになった。そして、東京で下宿生活を始める。

被爆者だという意味

被曝者は子どもができない。被爆者は健康な子どもを作れない。といった噂が広く広まっていたので、ノブコも自分は結婚できないと思っていた。しかし、ノブコの状況を理解しながらも結婚したいといってくれた男性がいた。何年も子どもができなかったときは、辛く感じた時もあったが、結局、可愛い二人の子供に恵まれた。

癌には幾度となく、辛い目に合わされた。甲状腺癌、大腸癌、子宮癌、両側の乳癌。「また病気になったかしら?再発かしら?」病気になるかもしれないと言う心配は、精神的にきつかった。

以来、広島には、数えるほどしか戻っていていない。あの、川の光景や、町の臭いを、フラッシュバックのように思い出してしまうからだ。故郷の広島、懐かしい広島なのに、戻りたくても戻れない。

そうしてノブコは、今年90歳になった。今も、あの時の夢を見て、うなされることがある。だから、あの経験を話すことは、これまでほとんどなかったのだ。

しかし、

「どうしても、話さなければいけない。まだ核兵器があるのだから、あたしは、この体験を分かってもらう努力をしなければいけない。死ぬ前に、子供たちのために、平和のために、世界から核兵器をなくしたいのよ」

そういって、姪っ子である私に、この体験を語ってくれました。

そして私は医師として、この体験をもとに、原爆のことを調べ始めたのです。

(伯母の原爆体験は、一旦ここまで。お読みいただきありがとうございます。医師としてこれまで集めた原爆の資料から、さらに深く考えます。伯母のその後の話も少し触れます。お付き合いくださると嬉しいです。)


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